<  丸山明彦公式ホームページ >




         

 世間を騒がす、聞きなれない病原菌「ノロウイルス」、感染して発症すると、吐いたり下痢をしたりする。体力のない子どもや高齢者は死亡にいたることもある。カキなどの二枚貝に巣食うため、一番のシーズンに生カキは大打撃をうけている。患者は全国で年間、1千万人に達するとも予想されている。
 都内のホテルで、客が絨毯に嘔吐して、その処理が不十分のため、吐物のウイルスが、ホコリと一緒に空気中に拡散、利用客や従業員300人以上が集団発症した。ノロウイルスは生存能力が高く、水中でも、乾燥しても、死なない。エタノール消毒でも死なない。ひとたび、人に感染すると小腸で増えて下水を経由して海に流れ、カキなどで増殖されて、再び人に感染する。吐しゃ物を塩素系漂白剤(キッチンハイター)などで消毒することが大切と。免疫もできにくいので、撲滅は容易ではない。今のところ、特効薬もないのでよく手を洗う、マスクをといった対策しかなさそうだといわれている。
 慢性萎縮性胃炎、胃潰瘍や十二指腸潰瘍、さらには胃がんなど胃を中心とした多くの病気を引き起こすピロリ菌。こちらは多くの検査方法が保険適用で、治療方法も除菌治療も可能。井戸水を飲んでいた人は、先ず疑いがあるといわれる。私も小学校のときは、井戸水を大きな水がめに汲んで飲んでいたので、きっと体内にお住まいのことと思われる。この菌の発見者2人は2005年のノーベル医学生理賞を受賞された。発見されなければ、一生気づかずに済んだのにと思うのはひがみでしょうか。
 嘔吐、胃の痛み、下痢に、科学的なことは分かりませんが、実によく効くのが「梅のエキス」、青梅10kgから約200gしかできない塩分0%の貴重なアルカリ食品。昔から一家の常備薬として、腹痛や体調を崩したときに飲まれていた。中国の悪水にも、これがあればと残念な思いがするほど、私には、今やなくてはならない薬になりました。今年も、多くの皆様の暖かいご支援をいただくことができました。心から感謝を申し上げ、来る年が良い年になりますようご多幸をお祈り申し上げます。くれぐれもノロウイルスにはご注意下さいます様。
(2006.12.25)
 サッカーファンには聞きたくない地名のドーハで行われたアジア大会には、チェスが正式種目に入っていて驚いたのに、ペキンでは、麻雀もという。もう少し若かったら、日頃鍛えたこの腕をという剛の者が、いくらでもいたのに今の若い人はあまり麻雀をされない。むしろゲームをやらせたら、金メダル間違いなしなのでしょう。ゲームセンターの大手「ラウンド・ワン」が横須賀に進出するというので、
川崎にある店を見学に行って、頭が痛くなることに。
 市内に36レーン、一箇所しかボーリング場がなくなった今、新しくボーリング場が、他の軽スポーツも楽しめる場としてできるのは、大歓迎なのですが、1階ワンフロアー全てがカジノ、いやそれよりも騒がしいゲームコーナーが占めている。スロットマシンがずらりと並び、対面は「海ものがたり」のパチンコの機会が並ぶ、他にいろいろなゲームマシンが所狭しと勢ぞろいしているのに、すっかり圧倒されてしまいました。但しゲームは全てコインでしかできず、プールすることはできても換金はできない。深夜に及ぶ営業時間も問題。
 先ず思ったのは、自分が学生だったら、ここが活動拠点ということに、ただ資金をどう調達するかは問題ではあるが。最良の方法は、ここでアルバイトをさせてもらうことなどと考えをめぐらせてしまう、それほど魅力溢れる場所になること間違いなしということです。しかし、自分のときに、なくてよかったとも思えるのです。
 そんな場所を、早く売らなければならないことは分かりますが、市の公有地に誘致するのは、すぐ近くに湘南学院という学校があることも考えれば、できない相談としか言いようがありません。ゲームコーナーがなければ、ボーリングを含めた軽スポーツ施設だけなら、何の問題もありません。しかし、それでは商売が成り立たないということに。 建設反対の請願も、2回の建設委員会で、いずれも継続審議に。杉本副市長が再度、両者の間に入って話し合う機会を。その結果を待って結論をということに。平行線が話し合いで合意に至るとは考えにくいとは思うが、今しばらく経緯を見守るしかない。
(2006.12.18)
 うわさには聞いていたものの、これほど凄いとは。全く何という素晴らしい映画を、山崎 貴監督という天才は作ってくれたのか、言葉もない。前半はそれほどでもないかと。子どものときに夢中になった紙飛行機の、あの見事な姿を拝めたのが収穫でと思っていたら、後半はもう泣き通し。涙で画面がぼけることも。こんな泣かされ方は初めてで、あらかじめ用心して一人で見ていたのが正解でした。監督も子役もとにかく上手い、凄い。
 舞台は昭和33年の東京、東京タワーが建設中。まだこの時代は、皆が貧しかったからこそ、格好は良くないが、純粋な温かいものがあった。確かに、貧しい故の苦しさも、思い通りにならない悲しさもあった。「優しくすると辛いから」表面は、なんと乱暴な、思いやりのないと思わせておいて、それを側面からひっくり返して、人と人との出会いや別れに、大切なものがあることを気づかせる。
 まだ会ったことのない母親を訪ねて、帰りの都電のお金もなく会いに出かけていく2人の子ども。あてがはずれて帰るに帰れず、一人が母親に「困ったときに、お守りを入れておいたから」と言われたことを思い出し、肘のつぎはぎを開けてみると、中から「困ったときに、使いなさい」と書かれた紙に包まれたお札が。雨に濡れて、夜遅くにようやく大騒ぎの我が家へたどり着く。熱を出して寝かされると「これ、おつり。とても感謝してるよ」と差し出す。「お願いだから、医者を呼ばないで」「あら、もう呼んだわよ」「悪魔ー(注射で痛い目にあっている医者のあだ名)」の絶叫。
 大家族の家から厄介払いされたと思い込んでいた集団就職で上京した少女。よく働いたご褒美に郷里への切符が、「帰っても、自分の居場所はない」と渋る。母親からの雇い主へのお礼と子どもを気遣う手紙の束がわたされる。「せっかくの決心がにぶるといけないので今日まで渡さないでいた。こどもが可愛くない親がどこにいるの」手紙を読んでいくうちに、手紙の上に涙が落ちる。こんな場面の連続。
 今の時代は、物は何でもある。それゆえに、大切なものを失った。だからといって、時代を30年代に戻すことはできない。ラストは、夕日を背景に「今日も夕日がきれい」と言う母親に子どもは「明日も明後日も、50年後も夕日はきれいだよ」といわせている。本当に今日の夕日はきれいだと、私たちは言えるのか。日本アカデミー賞を独り占めしたことも納得。来年の11月にできる続編が大いに楽しみに。
(2007.12.11)
 人気テレビドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」が11月18日に54回の最終回で幕を閉じた。途中からだったが、面白さに、回を重ねるうちに土曜の夜が待ち遠しくなる思いでした。韓国の時代劇ですから、背景がよく分からないのですが、そんなものは吹き飛ばす筋書きの面白さは、まさに波乱万丈、予想を裏切られる展開の連続で、1時間のたつのがなんとも早く感じさせる見事なものでした。加えてヒロイン・チャングム役のイ・ヨンエさんの美しさはチェ・ジウさん(冬のソナタ、天国の階段)をしのぐ、知的な美しさを備えた美貌とでも表現すればよいのでしょうか。
 原題は「大長令(テジャングム)」王が授けた称号で、偉大なるチャングムという意味で、16世紀の朝鮮王朝時代に、当時では考えられなかった王の主治医にまで登りつめた実在の女性の名前だそうです。韓国では最高視聴率57%を記録し、香港や台湾でも爆発的な人気を呼んだのも理解できます。日本でも、もっと時間帯を配慮すれば(夜の11時10分から1時間)、「今日はチャングムを見なくては」と張り切っていたおじさんの多かったことで、もっと凄いことに。実在した女性ですが、ほんの少し残された記録から、母の遺志を継ぎ、宮廷料理人の頂点を目指し、宮廷内の権力争いに巻き込まれながらも、やがて医学を学び、王の主治医に登りつめる壮大なサクセスストーリーに仕上げた脚本のキム・ヨンヒョン氏の才能に驚かされる。
 始めは分かりにくかった当時の階級名も、尚官(サングン)女性の中で最も高い身分、そのトップが最高尚官(チェゴサングン)、さらにその上に女官長。水刺間(スラッカン)王の食事を調理するところ、内侍府長官(ネシブ)、内医院(ネイウォン)、王様は中宗(チュンジョン)といった言葉も抵抗がなく耳に入ってきます。主題歌(オナラ)も完全に韓国調で、「愛しい人よ 来ることができぬのなら 私を連れて行って下さい」という歌詞。
 12月に総集編が29日(金)午後10時、30日(土)午後10時30分の2日間で5時間が待ち遠しい。身分に関わらず、どんな病人にも全力を尽くす。ひとつの道を究めようとするひたむきさ。相手のことを優先する愛情。今の私たちに欠けているものの大切さを教えてくれる。
(2006.12.27)
 34回を数えるクリーンよこすか市民の会、恒例の市長感謝状贈呈は、故長洲知事に習って、前沢田市長も自分の方から贈呈者のところへ感謝状を持っていく、贈呈者は自席で受け取るというかたちをとっていたように思うのですが、また舞台中央での贈呈に変わっていました。続いてポスター・標語入選者の表彰がありました。標語優秀30点のうち私が選んだ優秀作は

「 あいさつで みんなの心 つなげよう 」        池上小6年  吉岡 亜未さん 
「 あいさつは 気持ちを伝える 第一歩 」       岩戸小6年  桧垣 賢吾さん 
「 捨てないで そのごみひとつが 友を呼ぶ 」    大津小6年  荻田 颯さん
「 こんにちは この一言で みな笑顔 」        小原大小6年 二本木 知奈さん
「 飼い主さん 手ぶらで散歩 はずかしい 」     沢山小4年  佐野 裕菜さん
「 まちなかも わがやと思い きれいにね 」     津久井小2年 服部 梨香さん
「 ボランティア ポイ捨てしない 気持ちと手 」    馬堀小2年  木下 海さん

 お目当ての活動発表は 大塚台小6年生の「サプライズ!ネイチャー」 〜総合的な学習を通してゴミ問題を考える〜 自分の買い物袋を持とう 過剰包装を止めて 詰め替え商品を 計画的な買い物を提案は痛いところをついている。プラスティックを燃したときに出るダイオキシンはサリンの10倍ごみの処理費用は年間一人約一万円・・・なかなか発想が面白い。
 最後に担任の先生が登場。「こうしてごみ問題を調べてみて発見も多かったのですが、君たちは道に落ちているゴミを拾えますか」の問いに、「うーん」と少し答えに詰まる。「校舎や教室でも、まだ紙くずが落ちていたり、わたぼこりが舞っていたりする。折角こうしていろいろ調べて学んだのですから、これからはごみ問題を頭の中だけでとらえるのでなく、体でとらえる感性を持って欲しい」さらに続けて「自分から」という精神がボランティア精神の第一歩ですと、素晴らしい締めくくりをされました。こういう先生ならではの子どもたちの発表に、大きな拍手を送ります。
(2006.11.20)
 米上下両院議員を選ぶ中間選挙はブッシュ大統領の共和党が敗退、両院で過半数割れとなった。それが即大統領退任にならないのは日本の議院内閣制と違うところで、ただ残りの任期2年はブッシュ大統領もイラクを始め路線の変更を余儀なくされる。そして2年後には、いよいよヒラリー前ファーストレディの大統領就任ということも現実味を帯びてきた。
 アメリカとの違いを2001年9.11を扱った2本の映画から、国を守る覚悟をなげかけた牧島功県会議員の長女牧島可憐さんが産経新聞に投稿されている。当時米国ジョージワシントン大学に留学(後に日本人として初の修士号を取得する)していて、混乱を目の当たりにしてから、5年がたち実話に基ずく映画「ユナイテッド93」「ワールド・トレード・センター」が製作された。スクリーンに広がるクリアスカイ(雲ひとつない青空)に胸が締め付けられるのは、あの日の覚悟を思い出すからだろうか。(筋ジストロフィーの双子の兄が描こうとしている9.11の感想にも、惨劇の向こうに見えたのは雲ひとなく晴れた真っ青な空とあった)
 日本人の多くは「ワールド・トレード・センター」を見て家族の愛を強く感じたとコメントする。確かにオリバー・ストーン監督は家族や仲間同士のきずなを描いているが、アメリカの観客の反応は違う。「ヒーローがいる国でよかった」崩れ落ちていくワールド・トレード・センターへ志願して立ち向かう警察官たち。目に見えない敵に立ち向かう勇気を持ったアメリカ国民がいたことを再認識する。テロには屈しないと立ち上がったのは、自由の国アメリカの誇りをかけた国民一人一人である。テロとの対峙は映画の中だけの話でも過去の話でもなく、投票と言う行動で国家の外交政策に参画する。
 米軍基地を抱える神奈川県に住む私たちは、日本の国家戦略にどれだけの関心をもっているだろうか。外交は国民の関与すべき課題ではないと考えるのか。米軍の存在が近いあまり、日本の外交戦略すら放棄してしまっているとしたら、本末転倒である。テロを扱った2本の映画の主役は大統領でも政治家でもなく、一般の国民である。民主主義を支える一市民の決断、勇気、行動がいかに重要であるかを私たちに問いかけている。私たちは本当に国を守る覚悟があるのだろうか。
 現在、東京純心女子大学講師、早稲田大学公共政策研究所客員研究員の可憐さん。これからの女性のリーダー像を考えると。もうその一歩を踏み出している彼女の今後に期待するところ大である。
(2006.11.13)
 別掲でご案内しました「パッチワーク・キルト作品展」が10日(金)から文化会館ギャラリーで開催されます。主催者の協会の理事長を務められている藤田貴世美さんは、2003年ルーブル美術館で行われた「フランス・パリ美の革命展」でカルーゼル・ドウ・ルーブル・グランプリとトリコロール芸術平和賞をダブル受賞されるなど世界的に活躍されているパッチワーク・キルト作家なのです。
 藤田さんの作品に始めて出会ったのは第7回の作品展で、その素晴らしさに見せられて、以後隔年に開催される作品展を楽しみに拝見させていただいています。私が一番好きな作品は「寿づくし 母の帯とともに」という作品で亡き母上様の形見の帯を大作のキルトにされたもので、「やわらかな人生に光をあてながら」と添えられています。ご主人と母上と姉上を看病され次々に亡くされた。家族に涙を見せないために朝3時に起き、ひと針ずつ手で縫い、作品作りに集中されたという。



 第1回キルト日本展に入選された能、安達ケ原「心華」には「思い出の布と心づくしが、一本の針で・・・結ばれて物語を創りだします」と添えられる言葉にも奥の深いものを感じます。 母上様が謡いの稽古をされていた能の世界に作品のテーマを求め、今、ご自身もその世界にも身を置かれる。パリの芸術平和賞受賞作「石橋」は一番印象深かった作品を来賓者と一般観客の投票によって選出されたそうで、求めるものの深さが多くの人の心を捉えたものと賞賛されたものです。毎年の「よこすか薪能」の演目をイメージした作品を発表されてもいる。能に造詣の深かった沢田前市長ご夫妻もその才能を高く評価されていました。
 こうしてご紹介をしておきながら、情けないことに、全く能には歯が立たずで、日本人として世界に誇る伝統芸能を理解しないことに恥じ入るばかりです。ちなみに、有名な信長の好んだ『敦盛』「ひとたびこの世に生を受けて滅せぬもののあるべきか」は、能の『敦盛』ではなく、幸若舞の『敦盛』だそうです。曽野綾子さんが能を理解できるようになるには、深い人生経験が必要で、枯れるようにならなければと書かれていました。能に近づける年は重ねてきているので、あとは深みをどうすればと途方に暮れる思いです。
(2006.11.6)
 チーム名は東映フライヤーズで監督は名将水原茂、MVPが安打製造機、張本勲選手から実に44年振りの日本一に輝いた北海道日本ハムファイターズ。北海道に初めてチャンピオンフラッグがはためくことに。北海道はさすがに寒くて川に飛び込む者はいないが、選手とファンが一体になっての日本一に心からお祝いを申し上げるものです。
 日ハムにあって、実力を出し切れなかった感じの中日ドラゴンズになかったものは、”新庄剛志”ということなのでしょうか。「札幌ドームを満員にする」「日ハムを日本一にする」と言い切った新庄の夢が3年目に実現をする。しかも17年間の現役最後の試合という、本人の弁の通りあまりにもでき過ぎな劇的なフィナーレを飾ることになった。
 涙で見えなくなった最後の打席フルスィングの空振り三振の後、最後の守備に着く。ウィニングボールは、是非背番号1をと後継指名された森本のグラブに収まる。森本は新庄と抱き合い、涙で喜びを分かち合う。ベンチから飛び出した選手たちはマウンドのマイケルのところへ駆け寄って監督の胴上げとなるところ、そのまま新庄の方へ向かっていって、小笠原選手がプレイオフを制したときに言った言葉通り「勝って、つーさんを胴上げする」異例の監督より先に胴上げとなった。
 目立ちたがりともとられそうな新庄のパフォーマンスはナインの信頼に支えられてのものだった。ただの明るさだけでなく、気配りのできる明るさでチームを盛り上げた。試合後半から試合後も、ずっと止まらなかった涙の理由は「この仲間ともう野球ができなくなるのか」という思いだった語る。18歳で福岡の西日本短大付属高校から阪神タイガース入団。そのときに自分で買ったグラブを17年間ずっと大切に使い続けてきた。そういう表に出てこないものも積み重なってファンに愛される新庄があったのでしょう。
 引退試合と言えば、あのミスタープロ野球、長島茂雄さんの「栄光の巨人軍は不滅です」の試合です。中日の優勝が決まった後の消化試合にも関わらず、選手としての長島茂雄の最後の雄姿をひと目みたいというファンが詰め寄せ、スタンドからは「止めないでくれ」の絶叫のなか、グランドを花束を片手に涙を拭きながら一周する姿は、今もおおくのファンの目に焼きついています。この新庄剛志の引退試合は、それに勝るとも劣らないファンの胸に残る素晴らしい試合になったのではと思います。 阿久悠さんは「今のプロ野球に足りないものとして、英雄たちをいつまでも英雄として遇しようとしない、敬意がないと嘆いていた。プロ野球は英雄たちの超人的な活躍によって成立している。英雄の連続であり、敬意の連続で継続する。少年は父の時代の英雄にも惜しみなく拍手を送る人を見て、憧れの職業とする。英雄にどれだけ敬意が示されるか」と。新庄剛志という英雄にも惜しみない拍手を送る。
(2006.10.30)
 何でこんなに良い番組を夜の10時から11時30分に流すのか。しかし、この番組を作った人の目の確かさには敬服する。途中からだったが、NHKプレミアム10「この世界に僕たちが生きていること」、筋ジストロフィーの双子の兄弟と母親の2年間の記録を綴る。
 双子の子どもが4才のとき、筋ジストロフィーと分かったとき、母親は、どん底から這い上がれなかった。病名は言えなかった。この子たちに何ができるか、笑顔だけだった。だんだんに本当の微笑みが戻ってきた。初めから今のように強くはなかった。中学のときに、友達から病名を知らされた。2人とも平気だった。運命を受け止め、自分たちにできることを探した。働くのが夢だったが、就職先はなかった。そこで世界に2人しか作れない作品を作って売った。2人の世界に夢が広がった。絵が売れるまでになった。音楽も独学で勉強した。弟20才の時の歌「タイム」「この世に僕たちが生きていること 本当は奇跡なんだろう この世界にたった一回だけの命をさずかった 僕たちも そして全ての人も たとえ何があっても どんな人生であっても生きていることは素晴らしい」23才と7ヵ月、それが弟の命の時間だった。死の4時間前、50号の大作を書き終えた。まだ温かさの残る手に筆を持たせて、姉がサインを入れた。葬儀には600人もの人が参列してくれた。こんなに大勢の人が見守っていてくれていたんだと思ったその時に、何故か「110人の笑顔」がひらめいた。
 たとえ、どんな苦しみの中にあっても、誰しも人生に光り輝く瞬間は、決して消えることはない。人が生きたこと、そしてどの人生にも、かけがいのない人生があった。たくさんの人たち、そういう人たち全ての中で、自分たちは生きていると意識して、いろんな「関わり」を持って生きている。自分は一人ではない。自分の身の回りに起きることは全て「関わっている人たち」によって生まれてきた。今、ようやく110人の半分に。体力が落ちて、線が弱くなってきているが、そのゆるやかな線が、何とも言えない穏やかな笑顔を描き出している。
 そして笑顔とは別に100号の大作に全てをかける。テーマは2001年9月11日の同時多発テロ。テレビを通して見た惨状。何故か燃え上がるビルの煙の向こうの空がきれいに写った。正直こういうときに、それをきれいと思う自分が理解できなかった。この絵で伝えたいメッセージは、世界は悲しいニュースで溢れている。一瞬のうちに多くの人の命が失われることもある。それでも、人間の奥の、そのまた奥にある命の輝きを描きたい。たとえ、どんなに苦しくて絶望しても、でもきっとそのとき、やれることがある。自分はそれをただ普通にやってきただけ。何故あのときあの空があんなにきれいだったのだろう。普段当たり前だと思っている生活が絶対的なものはないということを、あの事件は証明しているような気がする。人は誰でもそうだが、優しい部分と悪の部分が絶対あると思う。その悪の部分は何なのか、現実をしっかりと受け止めて、逃げるのではなく、それは人間が起こしたことときちんと受け止める。(私はその画面を見て初めて気が付いたのですが、確かにそこには、画面の端には、空はきれいに青く広がっていたのでした。この青さに気が付いたのは凄いとしか言いようがない)
 小さな毎日の営みを積み重ねながら、今こうして生きている。この世界で生きることの希望を歌った2人の歌「銀色の光に照らされ 今この時代が動き始める 果てしない空に手を伸ばし 少しずつ大切なものを見つけ出して 時と共に色あせながら 記憶の中から姿を消した もう戻れないあの日には今はただまっすぐに歩んでいこう いつまでも輝く未来をもとめて」
(2006.10.23)
 昨年ご紹介させていただいた辰巳芳子さん「まごころのスープ」に続く第二弾は、新たな試みで「いのちをつくるスープ」。それは、脳梗塞にたおれた父を8年間にわたる介護体験から生まれた。この一杯が飲めるか、飲めないかで命がこちらに向くか、向こうに行くかが決まる。食べ物が飲み込めない。自分で作ったスープを病院へ持参した。
 鎌倉の自宅で開かれる教室で、この10年間スープを教えてきた。季節の食べ物を食べて力を分けてもらう。素材を知り尽くし、手抜きをしない。見えないところに手をかける。基礎を学ぶべきときがある。ときを逃がさない。ものから教わる。人からではなく、現象から教わる。気づきを応用していくのが稽古で、作業の意味を理解することが大切と説く。教室は500人待ちの状態。
 5月に一通の手紙が届いた。高知で病院の院長を務める北村さんから「食べられなくなった末期がんの患者さんに、辰巳さんのスープを本で見て、看護師に作ってもらって飲ませたところ、こんなに美味しいスープは飲んだことがないと、一杯のスープが、手作りのものに思いを込めることの大切さを教えてくれた。是非病院の患者さんに、心のこもったスープで生きる力を、そのために力を貸して欲しい」と協力を依頼された。600床の患者さんには、辰巳さんにとっても初めてのことだったが、81歳にして新しい挑戦を始めた。
 先ずは鎌倉へ病院の食事を作るスタッフ10人に来てもらって、2日間の集中レッスンを。スタッフは二ヶ月間、試行錯誤を、工夫努力を重ねた。いよいよ辰巳先生が高知へ、先ず病院を見学して回り、厨房へ。大切なのは患者さん皆が良くなるようにという気持ちと、ようやく先生のOKがでて、患者さんにスープが。「美味しかった」と患者さんの喜ぶ顔を見て、スタッフは自信を持つことができた。
「美味しい」は幸せのひとつ、手を尽くすと美味しさはやってくると辰巳先生の顔もほころんだ。
 「料理は祈り」食事を整えるのは祈りのひとつの形。自分のスープを求めてくれる人がいる限り、伝えられるだけ、伝えていく。今日も鎌倉の自宅でスープを教える。
(2006.10.16)
 10月7日西浦賀みなと緑地に「浦賀港引揚記念の碑」が建立され除幕式が行われた。碑文には「祖国を目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。私たちは再び繰り返してはならない戦争による悲惨な引揚の体験を後世に伝え、犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を建立する。」と刻まれている。 私を含め横須賀市民にも、ほとんど知られていなかったこの事実に陽の目を当ててくださった方が、昨年ご講演を聴く機会のあった小柳眞澄氏で、永年のご苦労に心から敬意を表するものです。
 1999年8月、小柳氏のもとに、一通の手紙が届いた。海上コレラ都市と呼ばれた復員船関係の新聞記事が添えられていた。それをきっかけに新聞記者経験のある小柳氏が活動を開始した。当時を知る古老に聞いて廻る事から始まり、資料、関係写真の収集に図書館や行政に何度も足を運び、海外にも資料を求めた。三年後市民協働事業として立ち上がった「浦賀探訪くらぶ」の協力を得て2002年8月15日を期して一般公開に漕ぎつけた。その一部として企画した地元関係生存者による座談会が社会に大きなメッセージを送り出すことになった。来場者は地域以外にも東京、九州、長野、埼玉、沖縄と広範囲に渡った。そうした人々から本に残して欲しいとの強い要望が寄せられ「浦賀港引揚船関連写真資料集」が生まれた。
当日ご来賓としてお見えいただいた元自治大臣の田川誠一先生も、朝日新聞記者だった若き日の写真と共に「公正に記録を残しておくことは大事なことと思う。私が多くの資料を集めているのは、後に残しておきたい、話しておきたい、知らせたい、という気持ちからだ。それは、記者という職業的な意識からではない。もっと大きな純粋に人間としての役割だと思っているからだ。事実を後世に伝えるのはたちの努めである」と文章を寄せられている。
 「浦賀にもあった岸壁の母」という記事が目を引いた。浦賀港の岸壁には全国から出迎えの人が殺到した。遠くから夫の姿、父の姿を見つけて走り寄る。お互いに言葉にならない声をあげて抱き合う姿。迎える人、迎えられる人は、毎日変わっていくのに、引揚船の入港のたびに初老の婦人が、上陸者の顔をひとり一人覗くようにして見ていた。たったひとりの息子の復員帰還を迎えにきているのだった。幾度も幾度も、浦賀港に船は帰ってきた。それなのに婦人の姿は岸壁から消えることはなかった。
 真冬の中、裸足でやせ衰え、ボロボロの衣類で力ない足取りで上陸したとされる引揚者の思い。そして、祖国を目の前にして、病に倒れ、上陸しても検疫病院で亡くなられた多くの方々の無念の思いは計る由もない。改めてご冥福を祈り、後世に伝えることを誓い、ご努力をいただいた小柳氏はじめ関係者の皆様に感謝を申し上げます。
(2006.10.12)
 24日のNTV「脳内物質」。久々に聞く名でしたが、やはり科学は日進月歩の世界と心強く思いました。セロトニンの働きは、例えば、蛇を見たことを確認する細胞と次の細胞の間には隙間があり、それをうめて次の恐怖を感じる細胞へ繋ぐのがこのセロトニンの役目。恋愛感情の場合も、ときめきを感じ、セロトニンのつなぎ目が強まると思いも強化される。好きという恋から、一緒にいると落ち着くという愛への変化が、この細胞の働きによるものとは驚きで、リラックスを幸福感を作り出すのが特徴で但し、年齢が高くなるにしたがってその量は低下するというのは何とも残念な。
 竹脇無我さん8年間の「うつ」との闘いの末、「うつ」は死ななければ絶対に直ると全国を講演している。父は名ニュースアナウンサー、49才「うつ」で自殺している。父の年齢に近づくにつれて不安がます。紛らわすために仕事を続けた。だるい。動きたくない。夜になると死にたくなる。台本が読めない、意味が分からない。アルコールでごまかす毎日、緊急入院。 「うつ」克服の第一歩は弱くても、次の一歩を踏み出す。その気力を持ち続けると、セロトニンが増えてくる。『だいこんの花』で競演して以来、親父と慕っていた森繁久弥さんの激励の言葉に救われた。「人間は泣いてばかりでは生きられない、笑ってばかりでも生きられない。交互にやればよいでしょう」この絶妙といえる励ましがセロトニンの分泌を促してくれた。 普通に暮らしているときは、程よくバランスが保たれている。セロトニンという脳内物質のひとつの働きが低下すると、「うつ」になる。床屋さんへ行くように病院へ。今、良い薬もある。休む勇気と休ませる勇気を。そして何より、身近な人の理解があれば絶対直る。死ななければ絶対直ると言い切る。
 もうひとつ「ドーパミン」は生きるために必要な潤滑油の役割を。減少するとパーキンソン氏病に。ロス五輪開会式、注目の最終聖火ランナーは、予想を裏切ってあのモハメド・アリ。久しぶりに見るその姿は、小刻みに体を動かしている。リズムをとっている動きではない。解説で分かったのですが、パーキンソン氏病と戦っているのでした。聖火を持つ手はそれほどでないものの、右手は動いたまま。よくこの姿をあのアリが全世界に見せてくれたものと大きな感動をうけました。
(2006.10.2)
先日、県立横須賀高校ラグビー部創立50周年記念式典で、関東学院大春口 廣監督の講演を聴くことができました。1949年静岡県生まれ。日体大卒業後、74年に関東学院大監督に就任。97年度に大学選手権初優勝。04年には宿敵早稲田を破り5度目の大学日本一に。横浜市教育委員も勤める。
 就任当初は部員が8人しかいなかった。生徒をだまして部に入れることから始まった。今は155人の部員を抱える大所帯。何年かたって、ようやく他の大学と練習試合ができるようになり、思い切って早稲田に申し込むと快く受けてくれた。意気込んで東伏見のグランドへ行くと、相手は何と5軍だった。勝つには勝ったが、関東は品がないと言われ、以来、ひたすら早稲田に勝つだけことが目標になった。
 今、考えてみれば基本的な精神、相手を尊敬することがなかったかと思う。必死に練習した。自分の体を犠牲にしてボールを活かす。危険が伴うので、体ができていないと安全にできない。苦しい辛い練習を毎日やる。ごまかさない。何でするかが分かっていれば、自分からやる。自分で考える。頭を働かせることを。徐々に自立していく。誰も初めから自立していない。集中する。練習してきたことを次の場面でできるように。自分のできることを。練習していないことは試合ではできない。とにかく体力をつける。積み重ねの大切さをと、毎年同じことを言ってきた。
 今年の大学選手権決勝。優勝インタビューを受ける清宮監督。「荒ぶる」を合唱する満員のスタンドは誰一人帰らない。04年の自分の優勝監督のインタビューのときにはスタンドはすでに閑散としていた。応援のない寂しさを感じたと笑う。前列に座った現役の横須賀高校の部員に優しく説明するように話をされる姿は、ラグビーでは全く無名の関東学院を5度の日本一に導いた名監督と同時に教育委員としても活躍されている教育者の姿でもあった。「人と人との出会いが奇跡」と締め括られた。
 次に登場した現慶応義塾大学ラグビー部松永敏宏監督も懐かしく拝見させていただきました。「魂のラグビー」数え切れないほどのスクラムを組まされたが、お陰で絶対に負けない自身が生まれたと語る。懇親会で挨拶にたった横須賀高校ラグビー部生みの親、OB会今井義徳会長は昭和31年にラグビーボール一個さえもなく出発した当時は、ここまで持続、発展することなど思いもよらぬことだったと感涙にむせぶのでした。私たちの時代も、同じグランドを使うため、野球部のショートの後ろはラグビー部ライトは陸上部、よくあんな状態でお互いに事故もなく練習ができたものだと認め合う、懐かしい思い出です。
(2006.9.25)
 青山俊薫(しゅんどう)師、昭和八年愛知県生まれ。愛知専門尼僧堂堂長という肩書きの尼僧さまのご講演。あまり面白そうでないなと思って出かけてみると、見事に良い方へ裏切られた。非行へのエネルギーも良い方へのエネルギーも同じ、出口が違ってしまう。誰もが良い所を持っている、それを伸ばしてゆく。学校の先生は、丸はいくらでも大きく、バツは見えないぐらい小さくつけて欲しい。
 一死刑囚の話。自分の歩みを振り返ると、一度も褒められたことがなかった。それでも一生に一度だけ、中学の絵の先生に「絵は下手だが、構図がいい」と褒められた。一度ぐらい人のためになって死にたいとアイバンクに登録した。人を殺した悲しみ、苦しみを歌に詠んで、後に歌人として注目された。
 一人の不登校の娘。兄弟と比較して駄目と言われ続けた。絶対に比較してはいけない。命は比較できない。子供は犠牲者。親の言う通りにはならないが、親のする通りにはなる。子供の感性は三、四歳で完成して、生涯を左右する。母親が本気で自覚すれば、世の中は収まる。銀行の腰掛に子供が靴のまま上がって遊んでいる。注意すると「おじさんが怒るから止めなさい」と母親が言う。そんな母親に注意すると「よけいなお世話だ」と怒って行ってしまった。子供を育てるのは共同責任、しかる姿を自ら振り返ることも。先ず自分の姿を正す。お手本としては落第と言う謙虚さがなければ、「子供こそ大人の親」子供のおかげ。「育児は育自」ときずかせられた。
 幽霊の三つの条件。おどろ髪を後ろへたらしている。心のあり方で済んでしまったことを何時までもひきずる。両手を前へ、。こうなったら、どうしようと取り越し苦労をする。足がない。心がいまここにない。幽霊にはならないように。今、逃げ出したいことも、逃げずに姿勢を正して取り組む。いかなることも幸いと受けて立つ。
 高校三年のときに、両親を亡くした人が。せめてお金を残していてくれたらと思った。五歳の妹と小さな部屋を借りて、命がけで働いた。本気にならざるをえなかった。後で考えると、自分は働くだけで精一杯。炊事、洗濯、家事一切を五歳の妹がしていた。何も置けない小さな部屋のおかげで、妹は整理整頓が上手になり、家事はお手の物となって、今、幸せな家庭を持って暮らしている。毎日、感謝で仏壇の両親に手を合わせている。ただひとつ、妹の花嫁姿を両親に見せたかったという思いが残る。
 一人の人間として生きてゆく姿勢は、今日、今をどう生きるかに尽きる。涙は明日、今日が宝。
 折角の感動のご講演の余韻が残るなか、余計な終わりの挨拶がと思ったら、「先生は尼(アマ)だと思っていたら、プロでした。幽霊の皆様、ご清聴ありがとうございました」と、これがまた大受けでした。
(2006.9.19)
六年前まで、神奈川県警の刑事だった。その大半を殺人、強盗など凶悪犯とかかわって「死」は日常だった。五十三歳で仏門にはいる。「おやじさん、どうしちゃったの」刑事部屋の同僚たちはのけぞって驚いた。父の葬儀をお願いした今は亡き日蓮宗金谷山大明寺の住職久保日維上人に弟子入りを願いでて、二年後の母の葬儀で許された。
 自信を持って語れるのは、刑事で培った経験しかない。寺はまちのよろず相談所。交番や駐在所と同じ。人間には邪悪な生き物がすみついていて、衝動的な犯行はそれが暴れだしたとしか言いようがない。犯した罪に立ち向かうのが刑事で、邪悪な物自体と向き合うのが僧侶。僧侶の仕事は刑事の仕事の延長線上にあった。
 蓮は汚れた泥の中から美しい花を咲かせる。そんな蓮の花が自分とだぶった。捨て子だった。警察官になるときに、父から知らされた。終戦後の食うや食わず時代に、母は貴重な卵と交換で乳をもらったと聞かされた。結婚前夜、母に「ありがとう」と言った。母は「何言ってるの。当たり前のことをしただけ」と答えた。母にすがり、おいおい泣いた。
 命にこだわるのは、自分が捨て子だったからかもしれない。両親は仏様だったと思う。仏様に育てられて刑事になり、犯罪という世の泥沼をなめて命を考えさせられた。父の死で上人と知り合ったのも、五十三歳で出家する定めになっていたのかもしれない。刑事時代に出会った無数の遺体を供養し、遺族を癒す一筋の灯火になれれば、導いてくれた仏様への恩返しだと思う。
 修行は僧侶だけのものではなく、皆それぞれの職業を通じて修行している。金が目的になったら職業意識はゆがみ、その心根が子供に伝わる。大切なものを忘れないようにしないと。大島龍穏師五十八歳の元刑事の僧侶。大明寺でお見かけしているものの、言葉を交わす機会はなかった。これほどの方とは知るよしもなく。
(2006.9.11)
 戦艦大和の乗組員として、その沈没を体験、上官の命と引き換えに一命を取り留めた八杉康夫氏。辺見じゅんさんの小説『男たちの大和』が映画化され、ロケセットの尾道市向島日立造船所へは百万人を超える来場者が訪れた。「大和が注目を浴びることは確かに嬉しい。しかしブームが過ぎ去った後は風化し、皆が忘れ去った時、愚かな歴史が巡ってくる。それは歴史が証明しています。だから私はあえて今、大和の歴史を語りたい。奇跡的に命を助けられた最後の乗組員として」という素晴らしいメッセージに触れることができました。
 昭和二年広島県福山市に生まれ、十八年、十五歳で海軍に。二十年正月に大和へ。「大和は絶対に沈まん。大和が沈む日は、日本が沈む時」と告げられた。しかし戦況はますます悪化し、三月下旬に出撃命令が下る。広島に一時帰港。「身の回りを完璧に整理してこい」と上陸を許可され、港へ降りると、不思議なことに母が待っていた。その日は母と二人、呉で一番いい旅館に泊まり、美味しいものをたくさん食べました。夜はこれで最後になると思うとなかなか寝付けず、何度も母の寝顔を見ました。翌朝、玄関の前で敬礼して必死の思いで言いました。「母さん、十七年間大変お世話になりました。たぶん、今回の出撃では帰ってこられないと思います。私の分まで長生きしてください」 二十九日、呉を出港。四月六日に全員が前甲板に集合。正式に沖縄特攻の命令書が読み上げられ、皇居へむかって「君が代」を斉唱後、「各人故郷の方向へ向かって大いに泣け」と言われ、それぞれが故郷の方向へ「さようならー」と叫びました。その時見た四国山系の暮れなずむ夕景と、きらきらした水面、その美しさを今も忘れることはありません。そして運命の四月七日。「総員、最上甲板へ」これは「逃げろ」という意味です。「不沈戦艦」だと思っていた大和が沈没する。もう海に飛び込むしかない。飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦に巻き込まれて、あまりの水圧と酸欠で意識がなくなり、気づいたら幸運にも水面に浮き上がっていました。しかし一生懸命泳ぐものの、次第に力尽きて重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。すると、すぐ後ろに川崎高射長がおられて優しい声で「落ち着くんだ」と言って自分がつかまっていた丸太を押し出し、尚もこう言ったのです。「もう大丈夫だ。お前は若いんだから、頑張って生きろ」と言われ、大和が沈んだ方向へ泳ぎはじめました。大和を守れなかったという思いから、死を持って責任をとられたのでしょう。高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、彼の命そのものだったのです。
 乗組員3千余名のうち、生き残ったのは二百七十六名、わずか九パーセントでした。「自分だけ助かってしまった」罪悪感。しかし私は大和のこと、そして川崎高射長のことをけっして忘れたことはありません。本来死んでいたはずの自分が助かったあの日が、私の人生の原点なのです。多くの戦友とともに海底に沈んだままの大和の上へ行って、十七歳だったあの日に戻って、生きるとは何かを、もう一度考えてみたいと思うようになりました。昭和五十年代になって、本格的に探索に入りました。私財も出し尽くしたときに、名乗りを上げてくれたのが辺見じゅんさん、角川春樹姉弟でした。英国から潜水艦を借りて捜索、ようやく大和探索はその全貌を明らかにしました。あの日から三十年以上の歳月が過ぎていました。
 昭和六十年、一人の女性から呼び出されました。その女性は辺見さんの書かれた「男たちの大和」を取り出し、こう言ったのです「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」。驚いたなんていうものではありません。戦後、何とかしてお墓参りをと思い、厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに。念願かなって佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることができましたが、墓石には「享年三十一歳」とあり、驚きました。もっとずっと年上だと思い込んでいたからです。自分のその年の時を思い返すと恥ずかしい思いでした。自分の愛する福山を日本を守ろうと憧れの大和へ乗った感動。沈没、敗戦。すべてが十七歳のときにおこったのです。今の高校二年生にあたります。
 現在の学生を見ると、明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。その元凶は昭和史を学ばないことにあるような気がしてなりません。真の平和は、歴史から学び、つくりあげていくしかありません。自分で学び、考える。人として生きたなら、その証を残さなくてはなりません。大きくなくてもいい、小さくとも、精一杯生きた証を残して欲しい。戦友たちは若くして大和と運命をともにしましたが、いまなお未来へ生きるわれわれに大きな示唆を与え続けています。生き残ってしまった私の人生は、生きたくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。未来を託す若者たちが歴史を学び、真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語り続け、いつか戦友にあったときに「俺も生かされた人生でこれだけ頑張った」と胸を張りたいと思います。
(2006.9.5)
出産数日本一を誇る横浜の堀医院が看護師による無資格の助産行為で家宅捜索を受けた。これまでなら、出産ばかりは我々男性には分からない世界で済ませてしまうところを、今回はそうもいかない事情がありました。この堀医院の昨年1年間の出産数2,953件は、17年度の横須賀市全体の数に匹敵するもので、驚くべき数字と言えるからです。
 横須賀市も他都市同様、深刻な問題になっていて、この9月には聖ヨゼフ病院が分娩の取り扱いを終了し、以後は共済会病院、市民病院、市立うわまち病院の3施設とレディースクリニックと後藤産婦人科の2開業医だけとなります。しかも共済会は、今年1人開業のため退職、現在4名で36時間の当直勤務を月7,8回こなさなければならず、市民病院も1人退職、3名で、うわまち病院に至っては1名。2件の医院はともに医師数は2名も、医師の年齢を考えると分娩数の減少もやむをえない状態で、今後ますます窮状を余儀なくされるとのことです。
 産婦人科医師になりたがらない。今年の横浜市大には2名しか入学しなかったそうで、なりたがらない理由は医事紛争が多く、しかもすべて刑事事件に。拘束時間が長い。内容のわりに報酬が少ないということで、絶対数の不足から年収5千万円で引抜きもあったそうです。これは日本だけの現象で、当面の対策としては、外国で開業している医師に戻ってもらう。ご自分の都合で辞めている女性の医師に復帰してもらう。報酬を上げる(市の負担で)ぐらいしかなく、早速うてる手はうつものの根本的な解決にはなりません。また共済会は三浦半島の周産期救急基幹病院を返上したため、周産期の医療事故が増加する心配がでてきます。
 少子化問題で、子供を多く産んでもらいたいのに、これでは全く話になりません。今、里帰り出産もお断りしている(市民でなければ受け入れない)情けない現状を知らされて、現行の医療体制を変えていかなければという思いと、これまでの関心の無さに反省をさせられています。
(2006.8.30)
 第88回大会4,112校の頂点は、73年ぶり夏3連覇達成の駒大苫小牧か、26年ぶりの決勝、夏初優勝を目指す早実か、注目の決勝戦は、どんな結末がとハラハラさせたが延長15回、勝負がつかず再試合に。苫小牧の田中、早実の斉藤両エースとも互いに譲らず見事な投手戦は、ホームラン記録を塗り替えた打撃優勢の大会のなかで特筆されるべき好ゲームとなりました。再試合で決着をつけるには忍びない両校優勝でも良いのではと思われます。再試合は好投手斉藤が、9回、粘る苫小牧を振り切って悲願の初優勝。
 箕島対星陵の逆転に次ぐ逆転の死闘を思い起こさせる智弁和歌山13−12帝京の戦いも素晴らしい試合でした。9回表8−4で4点りードされていた帝京は2アウトから8点を入れて大逆転、「もうあきらめていた」と智弁高嶋監督。これで勝負あったかに思えたその裏に再逆転のサヨナラ勝ち。追いつくために最後の投手に代打をおくった帝京は最後を締めくくる投手が底をついたが、仕方のないこと。前田監督も「両チームが一体となって、お互いが燃えた」と悔いはなく選手を褒めた。
 MIP、一番印象に残った選手は何といっても初出場の鹿児島工業の代打の切り札、今吉晃一選手。野球選手にしておくにはもったいないと思わせるキャラクター。スキンヘッドに濃い眉毛、ずんぐりむっくりの体型。走る姿はどう見ても野球に向かないがに股。これには理由があって、昨秋、腰を疲労骨折をしていて、そこまで練習に打ち込んだ勲章。地方大会では6打数5安打、甲子園でも4打数2安打。今吉君が登場するだけで、チームのムードが変わる。とにかく明るい。円陣や伝令ではスキンヘッドを触らせる。みんなの肩から力が抜け、幾多の危機を救ってきた。準決勝、最後の打席は早実斉藤君との真剣勝負。見事に三振したが「今まで生きてきた中で、一番楽しい打席でした」負けても涙はない。斉藤君に「優勝しろよ」とエールを送った。
 打高投低の背景に、いろいろない意見が。重くなったバットに筋力トレーニングと打撃マシンでスピードには対応できるようになった。打法もぎりぎりまで引きつけて鋭く振り抜くことができるようになって、投球の勢いをそのまま正面にはじき返すため、中堅方向に本塁打が目立った。梅雨明け後に急激に暑くなって、体が暑さに追いつかない。スライダー全盛時代、外角中心の配球に原因と、思い切って内角を突けない。どの投手もスライダーの切れは素晴らしいものがあるが、スライダーで楽をすると速球は落ちてくると言われたのは昔の話なのでしょうか。心配は残る。
(2006.8.21)
 陸上自衛隊少年工科学校後援会発行の機関紙「若桜」2号が送られてきました。そこには3月19日に行われた第49期卒業式の卒業生代表角丸生徒の答辞と午餐会での家族代表謝辞の要約が載せられていました。答辞もよかったのですが、謝辞は近年にない素晴らしいものでした。永井生徒の母上永井りつ子様は、分厚い原稿を手に正面の壇上に上がられました。1,100人のお客様を前にしての謝辞ですから、女性がされるのも珍しいことです。始めは型通り、教官や職員への御礼から入りましたが、読みあげる原稿の厚さに、どれくらい時間がかかるか心配でした。しかし、そんな心配を吹き呼ばすかのように、会場は静まりかえっていき、すすり泣きも聞こえてきました。
 『入校の記念写真に写った息子の、あの不安げな顔は、今でも私の心に刻まれております。息子にとって不本意だったかもしれません。はじめの一年間は電話をしてきては、いろいろと愚痴をこぼし続けました。ヤンチャな息子が電話の向こうで涙を流しているのが分かり、私も胸がはりさけるような思いがしたものです。あの日のことを思い出すと、この日を迎えることが出来ましたのは夢のようです。息子の小工校最後の手紙には、「特に苦しかった最初の一年目こそ、自分にとって最も大切な経験だった。その時期を克服したからこそ、卒業を天にも昇る気持ちで迎えることのできる自分があるのだ」という言葉に、三年間の成長をはっきりと確認できました。
 息子が辞めたいと申し出たときに、教育隊長、区隊長が親身になって何度も話し合いをして下さった。そういう温かい愛情が段々と息子にも通じ始め、徐々に変化してしていきました。二年になり家に帰る度に、学校での出来事などを自分から進んで聞かせてくれるようになりました。三年生になったある日、今でも辞めたいと思うことがあるかと聞くと「辞めたいどころか、辞めさせないで下さいとお願いしたいぐらいだ」と言い、「自分は自衛官であることを誇りに思う。自分に息子ができたら小工校に入れたい」と話したのです。そのとき私は自分の耳を疑ってしまうほど嬉しく思いました。
 厳しさの中に込められた深い愛情と情熱のこもった教育が、そのような言葉を息子に自然に言わせる大きな力になったのだと思います。卒業し、また辞めたいと思うことがあるかもしれません。そのときには、ずっと支え続けて下さった学校長初め職員の皆様、そして何でも一緒に乗り越えてきた同期の仲間のことを思い出して頑張っていって欲しいと願っております。チームワークと、連帯責任という強い絆で結ばれた素晴らしい仲間たち。ここで青春の貴重な時期を過ごさせていただいた息子は、世界一の幸せものだと、小工校は世界一の学校だと思います。
 三年間の思い出を胸に、皆それぞれの道で頑張っていく筈です。それがお世話になった皆様への本当のご恩返しです。今私は、無理やりにでも息子をここへ入れさせて頂いて間違っていなかった、学校の「安心してお任せ下さい」という言葉を信じて本当に良かったと思っています。いくら言葉を尽くしても足りませんが、心からの感謝の気持ちを込めて、お礼のご挨拶とさせて頂きます。』
 その場の雰囲気を謝辞の前文をご紹介できないのが残念ですが、教育の本来のあり方を、こんなにも大きな温かい愛情を感謝をもてることの偉大さを、少しはご紹介できたのかと自負するところです。
(2006.8.7)
 NHK「功名が辻」が佳境に入って非常に面白く楽しみになっています。お市の方の長女、淀君で思い出すのは、確か中学生のときに聞いたラジオ日曜名作座の「淀どの日記」。森繁久弥、加藤道子さんのお二人で演じられた声の名作の数々は放送史に燦然と輝く番組でした。放送を聞いて興味を持ち、早速、井上靖さんの原作を読んで、情景描写の美しさに、今度は井上さんに魅せられることになりました。来年の大河ドラマの「風林火山」も同じく、後に何度も山梨、長野を旅するたびに、信玄、山本勘助が思いを巡らせた地と感傷にひたっています。
 次に興味を引いたのが「異域の人」から始まり「桜蘭」「敦煌」「西域物語」「私の西域紀行」と、シルクロードへの幻想で、砂漠、涸川、満天の星を想像させてくれました。その後に、処女作の「猟銃」から「闘牛」「あすなる物語」「氷壁」といった読み方をしました。小説の面白さを教えてくれた恩人の一人と尊敬の念をいだかずにはいられません。
 その意味では日曜名作座も同じと言うことになります。 森繁久弥さんは改めてご紹介する必要もありませんが、小泉純也先生の選挙の応援に文化会館に入られたことがあり、舞台の脇から生涯一度だけの価値ある応援演説を聴く機会に恵まれました。お相手の加藤道子さんは04年1月31日に84歳の生涯を閉じられましたが、その名は永く残るものと。紅白歌合戦第1回(当時はラジオ)の紅組の司会者だったことは以外に知られていません。40年以上の超長寿番組となった名作座でいくつもの役柄を演じ分けたご功績に、紫綬褒章、勲4等宝冠章が贈られています。
 それにしても、戦国時代の女性達、お市の方、淀君、細川ガラシャ夫人と、乱世に運命を翻弄された女性に絶世の美女が多いのは、外見だけでなく内面からの美しさにも、自然と磨きがかかったということなのでしょうか。
(2006.7.31)
 現在、日本人のカトリック枢機卿2人のうちの白柳枢機卿の講演を聴く機会に恵まれました。しかし失礼を充分承知のうえで、お写真を拝見して見るからに面白そうでないという先入観をもってしまいました。そういう偏見を吹き飛ばす、たんたんとしたなかに、きらりと光るものが散りばめられたさすがのご講演でした。先の法王選挙コンクラーベ(ラテン語で鍵のかかったという意味だそうですが、そのまま日本語での根比べに通じそうな)でドイツ人のベネディクト16世を選んだ選挙にに参加された方で200名近くいるなかで60歳以上は健康上の理由でしょうか参加できないそうです。
 この世の中は大きな光に照らされていれば、影の部分も大きくなる。現在の物質至上主義、人に負けない、人を蹴落としてでもという競争社会で、命の大切さを失っている。「堕胎」が法律で許されている。胎児の「殺さないで」という声が聞こえないのか。老人の「安楽死」は役に立たなくなったものは抹殺してしまうことに。多くの殺人場面に子供の頃から接してくる。家庭のなかに問題が、いのちの軽さを母親が止めさせることができるはず。死の文明、文化を命の、愛の文明、文化に変えていかなければならない。神の愛も、仏の慈悲も同じ。伝教大師の「己を忘れて他を利する。これじひの極みなり」が全てを現している。
 いろいろな花が、それぞれ美しく咲いているように、人間の社会も、いろいろな違いがあって良いはず。相手のなkに良い点を見出す、そこに尊敬が生まれる。平和は人間の力だけではできない。神の助けと人間の努力があいまってこそ本当の平和が生まれる。世界の60億の人のうち20億の人は1日1ドル以下の生活をしている。マザーテレサはノーベル平和賞受賞の晩餐会で、「ごちそうはいらない。そのお金を貧しい人達に持って返りたい」と。道に倒れている人を見れば、必ず助けた。今、日本では人が倒れていても助けようとしない、余計なかかわりを持ちたくないと、見て見ぬ振りをする。愛は与えること。人を愛してこそ平和を築くことができる。
 尊敬する曾野綾子さんに思いをはせるご講演でした。
(2006.7.24)
 去る6月14日、80歳の生涯を閉じられた斉藤 正先生に心から哀悼の意を表します。昭和30年、30歳で横須賀市議会議員に初当選をされて市議を2期、長野市政を支え、神奈川県議会議員を9期連続当選され、長洲県政を支えられ、実に44年の議員生活を勤められた斉藤 正先生。
 同じ町内で、児童ソフトがご縁で当時小学校2年生のご子息の一郎さんを見ることに。この一郎さんが、お父さんの血を引き継いでか、真っ直ぐな性格の笑顔を絶やさない、ほれぼれする程の器を感じさせる良い子で、何度かお宅にも出入りさせてもらい、これまた政治家の夫人としての鏡と言える美人で明るい奥様にもご縁をいただくことができました。それがある日突然、皮肉にも政党の違う同じ県議の牧島先生の秘書になるということに。お詫びを込めてご挨拶に伺ったときも、笑顔で迎え入れていただきました。そして自分が市会に出るときは、今だから言えるものの、「構わないから一緒に町内をまわろう」と私を連れて廻って下さいました。初めての不安のなか、ここまで立場の違う私にこれほどの力強いご支援はありませんでした。今考えても、これは斉藤先生にしかできないことと、感謝これに過ぎるものはありません。
 一度、先生の選挙戦最後の街頭でのご挨拶をうかがったことがありました。聞いている者の心を打たずにはおかない素晴らしい演説でした。そういえば名演説で知られる亡き小泉純也先生が斉藤先生の演説は上手いと褒めておられたと言う話をうかがったことがありました。そしてある時はぐっとくだけてユーモア溢れる話を、べらんめい口調で話されたり、自由自在にその場に合わせた話のできる方でした。好きなお酒が入ると一層流暢に、あのお声がお話を聞くことができないのは何とも残念でなりません。
 7月4日に行われた「お別れする会」には多くの方が先生を偲んで参列されました。発起人として福島瑞穂社会民主党代表が座られていたのが印象に残りました。上田副市長が「原子力空母の問題を納められるのは斉藤先生しかいないと頼りにしていたのに残念です」と話してくれました。本当にまだまだ私たちにお力をお貸しいただかなければならない大切な人を横須賀市は喪いました。先生のご恩に少しでも報いることができるように誓い、切にご冥福をお祈り申し上げ、感謝を捧げるものです。
(2006.7.14)
 「雨ノモマケズ」を遺した天才詩人について何も知らなかった。1896年(明治29年)岩手県生まれ。盛岡高等農林学校を卒業し、研究生となる。1921年花巻農学校教師となる。26年退職、羅須地人協会を設立。農民芸術を説き、自然と農民生活で育まれた独特の宇宙的感覚や宗教的心情に満ちた詩と童話を残し33年(昭和8年)37歳の生涯を閉じる。法華経を敬信。童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」詩集「春と修羅」などが代表作として知られる。
 作家の新井満氏によると、「雨ニモマケズ」は全部で11冊残した手帳の最後の一冊に記されていた。35歳の賢治が、病床で必死に書き記したとされる。タイトルはなく、自分自身に言い聞かせるために書いたとも言われる。「ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ」は、手帳では「ヒドリ」となっているそうで、「ヒデリ」と書くところを「ヒドリ」と誤記したというのが定説となっているが、「ヒドリ」とは、小作人が日雇い仕事で稼ぐことで、当時の農民生活の苦しさを表現しようとしたのではという説も根強いものがあり、どちらが正しいのかは賢治本人に聞くしかないと紹介されている。日照りで涙を流すよりもヒドリで涙の方が近いような気がするのは私見。
 「デクノボー」と呼ばれのデクノボーについて文芸評論家の高橋さんという方は『虔十公園林』(けんじゅうこうえんりん)という作品がよくそれを表していると紹介されている。鳥や花を眺めては、いつも笑っている、ちょっと足りない虔十少年は、ある日、不毛の地に杉の苗七百本を植えて林をつくることを思いつく。様々な困難はあったが、彼はそれをやりとげる。虔十が死んで二十年後に、林は大きな価値を持ち始める。フランスの作家ジャン・ジオノ(賢治が生まれた前年の1895年生まれ)の『木を植えた男』も同様なテーマで名作を残している。
 前人木を植えれば、後人涼し。後世のために木を植えることができない自分にも、朽ち果てた我が
身が、養分となって木の成長に、いくらかの足しになれるであろうことが、せめてもの救いです。
(2006.7.7)
 高校3年の修学旅行、屋台で食べたラーメンの味は今も記憶に残っている格別の味でした。そして、7年前に佐世保市の港湾と長崎のテーマパーク「あぐりの丘」を視察で訪れて以来、3度目の長崎は豪雨をやり過ごしほとんど降られることもなく「さるく博」を楽しんで来ることができました。「さるく」はぶらぶら歩くという意味だそうで4月1日から10月29日まで「日本ではじめてのまち歩き博覧会」と銘打って74テーマのメニューを用意、ボランティアガイドさんが大活躍されています。
 「出島タイムスリップ」と「唐人屋敷の歴史」の二つを体験。出島は現在は島ではなく、まちの中に復元され、ここで龍馬や河合継之介が外国文化と出会ったのかという思いで見学。「唐人屋敷」は階段道の世界、船乗りの神様は「まそ様」を祀る。長崎出身のさだまさしは「なにより素晴らしいのがよか人で、旅人が迷っていると気さくに声をかけ、道案内をしてくれる」と。ボランティアガイドさんの親切な案内は、それを証明してくれる。
 映画「長崎ぶらぶら節」は吉永小百合さま、「若い人」のロケで裕次郎さんの腕にぶらさがって歩いたオランダ坂、浦上天主堂で原爆詩の朗読をしたことは、大切な思い出。原爆で崩れ落ちたアンゼラスの鐘が鳴ったときは胸がいっぱいになりましたと語る。ガイドさんは被爆手帳を持ち、現実を思い知らされる。歌に歌われる長崎は「長崎の鐘」「長崎の夜はむらさき」「思案橋ブルース」美空ひばり「肥前長崎みなとまち異人屋敷の黄昏は・・・」異国情緒溢れるまち長崎。
 北へ上がると横須賀と縁の深い旧軍港市、佐世保。米海軍基地、陸、海上自衛隊基地が市街地にあり、先日は原子力空母が寄港。但し港が狭く、沖合停泊となる。安全対策は進んでいて見習うべき点も多い。
九十九島(実際は204の島)は絶景。私事で父親は佐世保の西海橋を渡った田舎の出で、寺へ奉公に出され、巡り巡って横須賀の寺へ養子に入る。少しは長崎、佐世保の血が流れていることを再認識させられる思いです。
(2006.6.30)
  〜その3〜 
 6月12日に急遽、麻生外務大臣が蒲谷横須賀市長を訪問。17項目の解答書と、わずか20分の会談で通常艦配備の可能性は100%ないに等しい、15日に日米合同委員会が開かれるので、原子力空母受け入れのための12号バース浚渫に、協力を依頼した。蒲谷市長はこれを受けて議会に報告するための「全員協議会」を開きたいと議長に要請し、定例会が9日に終わったばかりで日程調整が難しく、あわただしく14日午後に開催となった。
 この「全員協議会」は正規の会議ではなく、今回限り前例としないことで、議会もことがことだけに了承した。市長は冒頭の報告の中で「通常艦配備の可能性がない現実をふまえ、安全対策に十分な期間をとるためにも、止むを得ず、2年後に迫る原子力空母の受け入れに向けて浚渫工事に同意したい」と事実上の「容認」の態度を表明した。会議には報道各社が勢揃いし、夕方からのニュースが流れ、翌日の新聞紙上を賑わすことになった。
 ある程度、予想はされたものの、この態度表明に各会派からの質問も、早くから容認をうちだした自民党会派を除いては、温度差はあるものの疑問をぶつけることになった。解答書が出て実質2日間しかなく、市長の意見を正式に聞いて30分の休憩を挟んでの質問で、しかも市長が答え得る質問という制約もあり、安全性の確保、防災協定、避難訓練への米側の参加協力といった「止むを得ず」に沿った質問から、公約違反ではないかとの厳しい批判もあったが比較的冷静に受け止めるしかないというところだと感じられました。
 確かに最終的には国の問題で、市にはこれを拒否し続けることは出来ないのが現実かも知れないが、何の抵抗もなくお手上げという訳にはいかない。改めて安全に向けて、新しいスタートに着くもので、会派として要請したモニタリング体制の充実に向けての回答は、積極的に進めるというもので、評価できるとして、今後の議会に課せられた責任も非常に重いものと受け止めるものです。
(2006.6.22)
 芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した洋画家・和田義彦氏の作品がイタリア人画家アルベルト・スギ氏の作品の「盗作と見られてもやむえない」として受賞取り消しとなった。再検討した審査会は「大変お騒がせしたのは遺憾。ただ、絵を描くのは個人的な活動なので、第三者が一方的に盗作だと決めつける訳にもいかない。慎重に審議し、良心に基づいて判断した」「現実論として、世界中の画家をあらかじめ承知した上で選考に入るのは難しい」と苦渋の決断を下した。
 美術評論家の瀬木慎一氏は「これほど酷似した作品を自作として発表したケースは世界的にも珍しい。他人の設計図で家を建てるようなもので、自分の画風への転換がほとんど見受けられない」と厳しい意見。他にも、これまでも絵画をめぐる騒動は過去にもあったが、多くは画面の一部を盗用したり、作風が似ていたりといったものだが、今回の作品は、画面の隅々までそっくりに見える。模写技術は大変高いが、構図や色彩が全く一緒で、言い訳の余地はないのではという意見も。
 これまで日本では全く無名に近い存在のアルベルト・スギ氏は「和田氏は私のファンだと思っていた。画家だとは知らなかった。制作における関係はない。和田作品は完全に盗作、複数の作品をひとつにまとめたような作品までつくっている」と怒りをあらわにしている。しかし、せめてもの救いと言えるのは、スギ氏の作品の素晴らしさが、日本で一気に認められのではと思えるもので、表現は悪いが怪我の功名。和田氏の作品が「骨太な表現と変化に富む内容は圧巻」と絶賛されたこともうなずける。原画の素晴らしさに、もっとスギ氏の作品を見てみたいという欲が涌いてくる。
 外国の美術館では、名画の前で一生懸命に模写をする姿を多く見かけるといわれる。それが日本では、かなり難しい。もっとも模写をさせれば、日本人の右に出るものは無いであろうことも想像に難くない独創的な作品を作り上げるのは苦手でも、真似をすることは名人芸。その良さを間違えない方向へ向けて発揮できるように、精神面の向上が必要なのかと思いながら、スギ氏と和田氏の作品を比べて、別の楽しみ方でも楽しんでいます。
(2006.6.8)
 明治36年山口県長門市に生まれる。童謡の黄金期といわれる大正末期に多くのすぐれた作品を発表し、西條八十(さいじょう やそ)に『若き童謡詩人の巨星』とまで賞賛されながら、昭和5年26歳の若さで世を去った。北原白秋「あわて床屋」「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「この道」「待ちぼうけ」。野口雨情「十五夜お月さん」「赤い靴」「七つの子」「青い目の人形」「シャボン玉」「雨降りお月さん」「あの町この町」。そして西條八十「かなりや」「お月さん」「お山の大将」「肩たたき」「兎と亀」「鉄道唱歌」また他の作者で「靴が鳴る」「背くらべ」「叱られて」「赤とんぼ」「雀の学校」「てるてるぼうず」「どんぐりころころ」「月の砂漠」「夕焼け小焼け」「花嫁人形」とこの時期は、正に黄金期に相応しいと言える。
 生まれ故郷の長門市仙崎は、江戸時代に有数の捕鯨基地で、捕獲した鯨に人間と同じように法名をつけ、胎児をもっていたときは埋葬して鯨基を建て今も残っているという。金子みすずの詩に『鯨法会』という詩がある。

  「鯨法会は春のくれ  海にとびうおとれるころ 
   浜のお寺が鳴るかねが ゆれて水面(みのも)をわたるとき 
   むらの漁師が羽織きて  浜のお寺へいそぐとき 
   起きて鯨の子がひとり その鳴るかねをききながら 
   死んだ父さま、母さまを  恋し恋しと泣いてます
   海のおもてを  かねの音は  海のどこまで響くやら」 

そしてこの詩にはアッと言わせるようなイマジネーションの飛躍があると西條八十が絶賛した『大漁』
という詩。

  「朝焼けだ 小焼けだ 大漁だ 
   大羽艦の 大漁だ
   浜は祭りの ようだけど
   海のなかでは 何万の 
   鰯のとむらい するだろう」  

 話の中でちらっと紹介してくれた尊敬する先輩の話には、何時もいろいろな感動をいただくことができるので楽しみにさせていただいています。「世の中は必ず勝者がいれば、影に敗者の存在があることを思い巡らせることが出来る、そういう感性を誰よりも多く持っているのが詩人といわれる人なのかな」と「金子みすず」という詩人と「大漁」という詩を、さらっと紹介して下さいました。
 その感性が見事に表現されているこんな詩を見つけました。

  『日のひかり』
  おてんと様のお使いが そろって空をたちました。
  みちで出会ったみなみ風(なにしに、どこえ)とききました。
  ひとりは 答えていいました。  この「明るさ」を地にまくの みんながお仕事できるよう
  ひとりは さもうれしそう    わたしはお花をさかせるの 世界をたのしくするために
  ひとりは やさしく、おとなしく わたしは清いたましいの のぼるそり橋かけるのよ
  のこったひとりは さみしそう  わたしは影をつくるため やっぱりいっしょにまいります
 
(2006.6.2)
 お陰様で、一年間、市の監査委員を勤めさせていただくことが出来ました。考えていた以上に大変な、しかし勉強になった仕事でした。毎月の出納検査から始まり、各部局へ出掛けていって状況調査、聴き取り調査を行い、問題点のあるところは指摘して改善を指示していく。細かな点は優秀な事務局の専門スタッフが間違いなく処理してくれているので、疑問点を遠慮なく並べ上げていく、各常任委員会ではここまで聴けないことも聴くことができる。市の職員の方のご苦労、ご努力も十分に理解できました。
 定期的な仕事に加えて「住民監査請求」という直接市民の方からの訴えが2件提出されました。受理することが妥当かどうかの調査に始まり、対象部局の調査を行い結論を出すまでに、何回も内部で議論を重ねていく。この作業が加わると、事務局の皆さんは普段の仕事に加えて大変な仕事量をこなすことになります。その上で、偏りのない公正な結論を導き出していく。公正な立場に立つことで、市政を正しい方向に導いていくことができる非常に重要な役割を担っていると言えます。残念ながら議員の枠は1年で辞任しなければならない申し合わせがあって、この有意義な仕事は続けることはできません。しかしこれは多くの議員が経験することの方が、遙かに大切なことと思います。
 昨年の6月から、朋友会(県立横須賀高校同窓会)の監査も仰せつかっています。こちらは役員会、幹事会に出席するものの、先ず監査の立場で意見を言うこともなく、会計が現職の税理士で1期先輩の山村先生なので、何の心配もなく普通の会計監査といったところです。ただここは基本会計と一般会計の2本建ての関係が分かりにくいことはありますが、貴重な同窓会の会費の正しい運用をチェックする大切な役目と、市の監査で得た経験を活かすことができればと気の引き締まる思いです。
 母校も3年後の100周年を控え、準備委員会がスタートしました。幸い、母校には各方面で活躍された方、されている方が小泉総理、ノーベル賞の小柴先生を始めきら星のごとく控えていられます。記念式典は豪華な顔ぶれになること間違いなしで、大いに楽しみにさせていただきます。
(2006.5.25)
  〜その2〜     
 15日に行われた「意見を聞く会」、議会は協議会の構成に疑問があり、情報公開の先進市で傍聴もできない秘密会に反発して、委員にあたる全員が出席を見合わせた。議会から正、副議長、各会派団長までは納得できても、各常任委員長をということが納得できない。どういう立場で発言すればよいのか、常任委員会は編成を終わったばかり、まして委員長の職は、対外的に委員会を代表する立場とは言い難く、どこからこういう選考基準がでてきたのか、議会の代表である議長に相談をしたのか、その他の構成にしても連合町内会長さんも、その立場での意見を聞こうというのか、首を傾げた点が多すぎる。
 時期的にも、受け入れに傾きつつある訪米団が帰るのを待っていたかのようにとられても仕方がない。そして原子力空母を母港化するには、港内の浚渫といった受け入れ体制を整える必要があり、その作業には2年はかかると言われていて、タイムリミットもあるということなのか。横須賀市長の港湾管理者の許可という責任ある権限を慎重に考えることも必要なのでは。安全性に絶対はあり得ない。防災協定も必要。軍の機密事項で難しい点も多いが、できる限りの積極的な情報の公開を。地位協定の見直しも必要。基地従業員の削減の心配。多くの課題があり、市民の全面合意は難しいにしても、納得できる結論を下す努力が足りないのではと考える。
 この1回目の会合への批判に対して第2回目は、公募、公開方式で120名から意見を聞くことに。傍聴も30人認め6月8日に開くことになったのは少しは前進かもしれないが、どうも「容認」という結論を急ぎすぎているように思えてならない。この問題に関して、国は防衛庁長官も、外務大臣も横須賀へ出向いて説明にあたるといった姿勢も見られない。沖縄が済んでからというなら、これから時間をかけて話し合いを重ねていけばよい。市民の意見を無視して、物理的条件が先行してよいわけはない。今、「条件闘争を始める」時期ではないと思う。
 そして、何より『議会の決議』はそれなりの重みがある。状況が変わったからといって、それを自ら否定することは、そう簡単には出来ない。
(2006.5.19)
「就任以来最も心を動かされた面会の一つ」と述べたブッシュ大統領との面会に、横田早紀江さんは「ブルー・リボン・バッジ」を取り出した。大統領はそれを手に取り自分で左胸に付けた。「大変お忙しい時間を割いていただいて申し訳ありません」と挨拶すると、「人間の尊厳と自由について話せないほど忙しくはありません」「人権を尊重しない人(金正日総書記)に発言するのは勇気のいることだ。みなさんの行動を誇りに思う」「母親たちが再び我が子を抱きしめることができるようにならなければならない」と大統領は早紀江さんに温かい言葉を重ね激励した。
 大統領との面会に先立つ米下院公聴会で「子ども達が助けを求めている間は、どんなことがあっても倒れることができません」「世界が心を合わせて、『拉致は許せない、被害者をすぐに返しなさい』とはっきり言っていただきたい」と証言した。この母としての訴えに、米国の有力国会議員らは口々に「北朝鮮は許し難い」と語り「私たちにできることはなにか」と積極的に協力する姿勢を示してくれた。公聴会のリーチ委員長は「これは日本の家族だけでなく、米国、世界の家族の問題だ」と語った。 「彼女(めぐみさん)は、工作船の船底にある小さな暗い部屋に閉じこめられ、(日本から北朝鮮へ)暗い海を渡る間『お母さん助けて』と叫びながら、部屋の壁を爪でかきむしっていた」と後に亡命した北朝鮮工作員は証言した。めぐみは音楽が好きで、元気な女の子だった。でも拉致された後、北朝鮮で撮られためぐみの写真はとても寂しそうで、私は思わず「めぐみ、あなたはこんなところにいたの。とても恐かったでしょうね。まだ助けてあげられなくてごめんね」と言い、写真をなでた。早紀江さんが大統領にあてた手紙の一節は涙なくしては読めない。
 更に、早紀江さんは「世界中の国から拉致された被害者を救い、残りの人生を自由の国で過ごさせてあげることを、そして政府から非道な人権侵害を受ける北朝鮮の国民のことも忘れなてはならない」と訴えている。北朝鮮に対する拉致疑惑追及の動きが国際化して、一日も早い解決に向けて大きなうねりが動き出すように願い、改めて自分にできることは何かを考えていかなければとの思いを新たにするところです。
(2006.5.8)
 26年ぶりに質問にたった民主党の黄門さま渡部恒三国対委員長。かつて渡部氏の下で国会対策に汗を流した小泉総理との論戦で、「この人は絶対総理大臣になると思った」と持ち上げたかと思うと「しかし5年もやるとは思わなかった」と、格差の問題を取り上げ5年間の総括に及んだ。地域格差、経済格差、企業格差がひろがり、首都圏に金も物も集中し、地方が切り捨てられている。
しかし、東京の人が幸せかというとそうでもない。児童の就学補助率は全国で12.8%のところ、東京は24.8%、足立区に至っては42.5%となっている。地方は過疎で苦労し、人口集中の東京は格差で苦労している。
 総理の答弁は「渡部先生の地元、会津は観光客が20万人と落ち込んだが、昔の宿場町(大内宿)を再現したり、電車もバスも乗り放題の『会津ぐるっとカード』を発行したりして、今80万人と増えてきている。会津の人は知恵がある。全国一律でなく「一流の田舎」という考えもある」と。
総理は触れなかったが、さすがに渡部氏は「会津は昨年、総理の地元の横須賀と友好都市になった。お陰様でいま、この『起き上がりこぼし』が大変よく売れている」と現物を持ち出した。(メール疑惑の時に、前原前代表を勇気づけるつもりで渡した物が、たまたま起きあがらなかったことも)民主党が一日も早く立ち直り政権を担える政党になるようにと。
 何処までが本気なのか、竹中大臣に至っては、名前すら覚えてもらえず「あの、学者で大臣になった人」と切り捨てる。先立つ質問は菅直人氏。折角内容のある質問も、怒りっぱなしで、全く反論を受け付ける姿勢がない。次の若手は、やたら早口で、相手の反応も読めない始末。渡部氏の後の、鋭い質問で名をはせる共産党の佐々木憲昭氏も、さすがにやりにくそうで、この日の主役の座は、すっかり持って行かれた。ゆっくりと、木訥なあの会津なまりで、今様のフリップなど使わずに、弁論一本で、一言一言かみしめるように話され、最後はにこっと笑って終わる。
 「政治の本質は、弱い人、恵まれない人、本人の責任でなくて世の中の変化に困って居る人、そういう人たちが幸せに暮らせるためにあるのであって、先ず地域格差をなくし、生活格差をなくし、東京に生まれた人も、東北に生まれた人も北海道に生まれた人も、千葉県に生まれた人も(ここで皆思わず笑い出してしまう)、誰もがこの日本に生まれて良かったと思える日本をつくること」と見事に締めくくられたのでした。
(2006.4.28)
4月15日小泉総理主催の「さくらを見る会」が新宿御苑で行われた。総理は挨拶の中で、細川ガラシャ夫人の辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を引き合いに、ご自身の退陣の心境を語った。
 細川ガラシャ夫人、名前は玉といい、明智光秀の三女として生まれた。不本意ながら織田信長の命により細川藤孝の長子忠興に嫁ぐ。気高く賢く美しかった玉が、忠興に対して心を許すようになったのもつかの間、本能寺の変で、父明智光秀が信長を倒すことに。当然、義父の藤孝、夫の忠興も光秀のもとに駆けつけるものと思ったが、中立の立場で成り行きを見守る。光秀は孤立無援となり、短い天下を終える。母も姉も坂本城とともに滅んでしまう。その後2年間、丹後の山奥深く幽閉されることに。ここでキリスト教に出会い信仰を深めていく、幽閉を解かれて大阪城下玉造の細川屋敷へ住むようになっても、心の平安を信仰に求めていく。
 秀吉の死後、再び天下は乱れ、徳川家康と石田三成の対立が激化。三成は細川忠興を味方に付けようと、軍勢を差し向け夫人に人質になるよう強要しようとするが、夫人は敢然とこれを拒否し、屋敷に火を放ち38歳の波乱に富んだ生涯をとじた。苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、世の中の平和を祈り続けた生涯であったとされる。洗礼名の「ガラシャ」は「グレーシア」神の恵みという意味。
 身の処し方の難しさが人ごとではない年齢にさしかかって、改めていろいろと考えさせられることになってきました。「花はいつも咲いてちゃきれいでない。散るからきれいなんです。私も引き際、散り際を大事にしたい」が総理の言葉でした。
(2006.4.21)
「泰山」は中国五名山のひとつ。山東省にあり標高は1545b、世界自然文化遺産の指定を受けて
いる日本の富士山にのように、古来、名山として慕われている。「泰山、北斗の如し」とは、泰山と一方の、衆星これを迎える、星の中心として仰がれる「北斗星」。それぞれの道で、人々から尊敬され慕われている人のことで、「泰斗」と略すこともある。
 「泰山は土壌を譲らず 故に大なり、河海は細流を選ばず 故に深し」泰山は小さな土の積み重ね。黄河や大海も、どんな細流をも択ばず取り込んで深甚となるのであって、すべてのものごとは、小さいものの集大成であり、人も事業も同じであると。「泰山自若」は意外なことのあっても、少しもあわてないこと。「泰山の安きに置く」は高くおおきな泰山のようにどっしりと安定させること。
 私達の子どものときの「泰山」と言えば、本名、山村泰三。横須賀は田戸小、不入斗中で健康優良児、吉葉山に紹介されて、大相撲に。しこ名は泰山から旺葉山を経て「廣川」最高位は小結で、色白で相撲人形のような体格と容貌、節度ある土俵態度で親しまれた。引退後、名門「宮城野部屋」を継いで宮城野親方に。不入斗中同期に、暴れん坊の東京オリンピック柔道金メダルの「猪熊 功」氏。 廣川、宮城野親方の跡を継いだのが現、熊ヶ谷親方(竹葉山)。一昨年まで廣川未亡人に雇われる形で部屋を預かり、小柄で入門先が見つからず帰国寸前の大関白鳳を拾い上げ育て上げた。ところが、廣川、先代宮城野親方の娘が北の海理事長のまな弟子だった元十両「金親」と結婚、部屋を継承し、竹葉山は師匠の座を追われ、部屋付き親方に格下げになった。
 4月9日に恒例の横須賀場所が開かれ、前日の海上自衛隊の観桜会には勧進元の湘南信金、服部理事長に伴われて大関白鳳が勇姿を見せ話題となった。この横須賀場所は服部理事長と熊ヶ谷親方のご尽力の賜で、宮城野部屋と横須賀の繋がりの深さも同様と言える。
 泰山、北斗、泰山は土壌を譲らず。深みのある言葉が活かされように、白鳳の活躍を祈る。
(2006.4.14)
学生時代の盆暮れは、東京でデパートの配達のアルバイトをしていました。自転車の後ろに大きな籠を載せ、中に配達の荷物を詰め込んで、登り坂で止まらないように注意をして走る。止まると自転車ごとひっくり返るので。今の体力では考えられない重労働でしたが、収入はもの凄く良かった。
 あるとき753掛さんという名の配達がでた。伝票をみてアパートの753号室の掛さんだろうとあたりを付けて行ってみると、2階しかないアパートでどう考えても753号室まではない。部屋にも名前が書いていない。こんなところで時間をかけていられないと焦っていると、運良く住人の一人が出掛けるところで、早速聞いてみると、その人が「掛けさんという人は居ないけれど」とにっこり笑って伝票を見てくれた。「これでは分からないよね」と言って説明してくれた。七五三で「しめ」と読む「しめがけ」さんが正解。数字で753と書かれては、送った人も分かっていないのではと無事に解決。せめて、ふりがなをふっておいてくれればと。
 先日、読売の編集手帳が取り上げたのが「四月一日」さんで「わたぬき」さんと読む。昔の人は陰暦の四月一日、着物の裏地と表地のあいだから綿を抜いて衣替えをしたことに由来するとあった。これも絶対に読めない、配達泣かせで、どう見ても日付で「配達日指定」と思いこむ。四月一日が過ぎていたりするとペナルティーかと青くなるだろうなと、にんまりしてしまった。
 編集手帳は更に、民主党執行部の心境は「綿のごとし」。「綿入れ」は脱いだものの、次の衣装は決まっていない。統率力という裏地のきちんとついた「袷(あわせ)」か、はたまた寄り合い所帯の地肌が見える「破れ単衣(やぶれひとえ)」か。民主党の衣替えはまだ途中であると。 尊敬する亡き高坂正堯先生の教え子の前原代表に大きな期待を持っていたのに、まだ若いので、これを機に、ひとまわり大きくなって再起されることを楽しみに、自分自身も、身に付いた甘えという綿を抜き、心の衣替えをと思うものです。
(2006.4.7)
 正月の迎春、節分の立春に続いて実際の春が桜と共にやってきました。雪国ではフキノトウが芽を出す。「芽が出る」は「めでたい」の語源にあたるそうです。
 臨済宗の僧侶で、芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さんが、節分にちなんで書かれた文章で、「鬼は外」の鬼は「邪気」で、昔の人は不幸の原因は邪気にあると考えていました。この邪気に対しては、「無邪気」を差し向けるのが一番いいやり方であって、対抗しない、力で押さえつけない、やっつけようとしない。そうすると邪気が鈍化されて邪気として現れなくなってしまう。私達の体の中にある邪気、たとえばガン細胞ですが、西洋医学では邪気に対して邪気で対抗する切除し放射線や薬でやっつけようとする。しかし考えてみればガン細胞も、自分自身の一部なので、言うことを聞かなくなったからと言って抹殺してしまっていいものでしょうか。
 無邪気で向かうということは、邪気を内に取り込んで融和する。邪気を悪いものだと固定的に見ない、たまたま今の自分に現れた「出来事」としてとらえる。自分の内臓のことを考えてみて下さい。内臓は、休むことなく一所懸命に働いているのに、まったく顧みられることなく、評価も感謝もされない。不平不満がたまり、病という出来事を引き起こしても不思議ではありません。温かく見守ることが必要で、邪気という自分の中の異物を否定しない、やっつけるのでなく、自分の一部として、温かく包み込んでしまう。それが慈悲ということです。と達見されていました。
 ここ二年ばかり、健康診断が用事とぶつかって受けられず、いろいろ悪いところが増えていることと余計な心配をすることなく、自分の体に温かい眼差しを向ける、感謝をすることが先決と気づかせていただき、三度目の今年の春を楽しんでいきたいものです。
(2006.3.30)
 WBC(ワールドベースボールクラシック)日本代表が世界一に、ティファニー制作のダイヤをちりばめたトロフィーがまぶしかった。韓国に二連敗して万事休すと思われた地獄からはい上がり、一気に世界一、天国へ。準決勝の韓国戦、三連敗はないと確信していたものの重苦しい展開、それをうち破った福留の代打ホームランは大きかった。そこへ行くまでにイチローが出塁しては盗塁、これはボディーブローのように効いていた。
 決勝戦キューバはさすがに強かった。一点差に追い上げられたときは、これですっかりキューバのペースで、底力を見せつけられた。初回のタイムリーをはなった今江は、韓国戦の敗因をつくった大きなエラーを取り戻す、大活躍の西岡、頑張った里崎とロッテ勢は大きく成長したことと思われる。川崎、多村、小笠原もひとまわり大きくなって、これから大きな期待がもてる。ヤクルト青木は逆に活躍できなかったことが成長の糧に、30人の選手がそれぞれ得たものは貴重な財産になったことと、これほどの収穫までは想像できなかった。
 それにしてもイチローは凄いとしか言いようがない。宿舎が皆と違うとしても、皆より一時間前には先に来て練習していた。「エリア51」と呼ばれる守備範囲は全く安心してというよりも、そこへ打球が飛んだだけで、何かを期待してしまう。孤高の天才が、感情を表へ出してまで、先頭に立って引っ張った。ここというチャンスで期待通りに結果を出せる集中力。他の選手がイチローから学んだものはプロとはこういうものと。
 すっかり有名になったボブ・デービット審判。ビデオが証明する西岡のタッチアップ、これほどのドンピシャリのタッチアップなど、これまで見たことがないのでは。西岡の反射神経がいかに優れているかの証明になった。勝負の女神が、必ず正しく見ていることが想像できて、ほっとする思いも味わった。これまで世界では十分に認められていたものの、国内では長嶋さんと比較され、いささか評価の低かった王監督にもこれで陽があたる。
 プロ野球選手が、これほど目の色を変えて必死に取り組むことのできる野球の素晴らしさを存分に魅せてくれた今回のWBC。野球選手になりたかった。
(2006.3.23)
 12日の名古屋国際女子マラソン、とぎれとぎれにしかテレビを見れなかった。20キロ過ぎで渋井陽子選手の独走で新記録達成かというところで、その快調な走りを見ると風もなく条件にも恵まれて野口みずき選手の記録更新の期待でした。それが次にテレビを見れたときは、テロップに「逃げる渋井、追う弘山」とあった。しかし画面ではまだ大分差があり、36秒差とかで35キロを過ぎた辺り。100メートル以上の差があるので、まさか逆転はない。弘山さんは、また健闘して後半追い上げたが及ばず2位、どうしても優勝に手が届かないとなるものと思っていました。
 それが、しばらく見ていると、どうも先頭の逃げる渋井は少しペースが落ちていて、記録達成はなずという計算になっているようでした。それにひきかえ弘山さんはいつもの少し苦しそうな表情ながら、足の運びは衰えていない。一時は1分以上離されていたのをどんどん追い上げてきている最中なのでした。これはひょっとするとという期待で、20秒差になると画面でもかなりはっきりと姿が見えるようになってきました。残り2キロ、4秒差、もう完全に渋井をとらえました。ならんで引き離す、残り1キロ、もうゴールの競技場が見えてきました。抜かれた渋井もサングラスを外して最後の力を振り絞るも差は広がる。遂に競技場に入りゴールを切る弘山晴美選手37歳。
 国士舘大から資生堂に入り、2年後陸上部の先輩の勉さんと結婚。トラックが専門で96年アトランタから3大会連続で五輪に出場。98年からマラソンにも挑戦するも2位が3回どうしても勝てなかった。シドニー、アテネの五輪も惜しいところで代表の座を逃がした。夫の勉さんも2位が最高だそうで2人とも優勝に縁がない。今回のマラソンが最後との思いで、遂に挑戦10回目にして栄冠を手にしたのでした。
 今、走れば記録という最高潮の26歳渋井選手に勝ったこともすごいことですが、美貌をかわれて資生堂がという偏見も見事にうち破っての勝利には、惜しみない賞賛を、そして沿道から励まし続け遅れて競技場に駆けつけた夫の勉さんの胸に飛び込んでうれし涙をながす弘山さんの姿に、女性として、一人の人間として、諦めずにひたむきな努力を続けることの大切さを、素晴らしさを見せていただくことができました。
(2006.3.13)
 イタリア人の作曲家プッチーニの歌劇で、作曲したプッチーニは第3幕の途中まで作曲したところで亡くなり、弟子がその後を補って完成させた。1926年のミラノ・スカラ座での初演はトスカニーニが指揮をしたが、この途中の場面でタクトを置き、作曲者の死を悼んだ。
 伝説の時代の北京が舞台。絶世の美女トゥーランドット姫は求婚者に謎をかけて、答えられないと首をはねていた。ダッタンの王子カラフがそれに挑む「夜ごとに生まれ朝には死んでしまうものは?」王子は「希望です」と答える。次は「偉大な行為を思うとき燃え上がり、死を思えば冷めるものは?」「血潮です」。「あなたを燃やす氷は?」という最後の問に「トゥーランドット」と正解を答え、今度は王子が「私の名は?」と謎を出した。答えられたら自分の命を捨てようと。王子が自分の勝ちを確信して歌う歌が「誰も寝てはならぬ」で「夜明けに私は勝つ、私は勝つ」という歌詞。
 トリノ五輪、12日の開会式の最後に、3大テノールの一人ハバロッティがこの曲を歌ったときに、荒川静香は運命を感じたと語る。五輪二ヶ月前にコーチを替え、一ヶ月前にフリーの曲を二年前の世界選手権優勝のときの「トゥーランドット」に替え、得点に結びつかないイナバウアーをどうしても入れる。美しく踊る、自分らしさを出したいと大きな賭けにでた。採点方法が変わり技術判定員とのたたかいでもあった。
 体が大きく(166p)日本人には珍しく手も長い。衣装がよく大人の美しさをだし、落ち着きを感じさせる。ジャンプばかりが注目されてきたフィギアに、「美しさ」を取り戻してくれた。そんな印象をもってハラハラしながら早朝のテレビに釘付けになった。ようやく日本にもメダルが、それも金メダルとは五輪の女神も粋な計らいを最後に用意してくれていたのでした。
 意識の奥底にメダルへのこだわりがあったはずなのに、いっさいメダルの話はしなかった。特に「欲張りすぎた」と何度も語っていた。五輪で選手が陥るマイナス要因は100%の力を出し切ろうとすることで、さまざまな重圧のかかる五輪は100%をだせる状況ではない。いかに70,80%の力を出し切るか。過度の緊張の中であえて20%を抑え、抑えた中で、どれだけ自分を表現し切れるか。「できることを淡々としっかりやっていれば、結果はついてくる」。死ぬ気で打ち込んできたからこそ、本番では頑張りすぎない。荒川はそれができたという賞賛の言葉が印象に残った。

 「トゥーランドット」カラフ王子は自分の名をあかし、姫に命を預ける。姫は「名前がわかった」と人々が待つ広場へ「名前が分かった。その名は愛」と叫ぶ。
(2006.3.3)
 メダルのとれないトリノ五輪の中で、カーリングが健闘して人気がでたのは嬉しいニュースとなりました。ルールが少しでも分かると、なかなか面白いゲームで、緻密な読みと繊細な技術が要求されるこの競技は、案外日本に向いているのではと思えてくる。「奇跡の一投」で大逆転、漬け物石とデッキブラシのお遊びではないことを見事に証明してくれた北の女神達に大きな拍手を送ります。
 フリースタイル男子モーグル。あの急斜面の、あのコブを膝で吸収する見事な技術だけでも、我々一般のゲレンデスキーヤーには気の遠くなるような思いなのに、空中でターンなど考えられないものです。銅メダルに輝いたのは、米国のトビー・ドーソン選手、27歳。 韓国の警察署前に置き去りにされ、孤児院で半年暮らした後、3歳でスキー教師の米国人夫妻に養子として引き取られた。初めは英語が分からず泣いてばかり。この夫妻は翌年、同じような境遇の子どもを弟としてソウルから受け入れた。そしてスキーを教えると、見違えるようにたくましくなって、ワールドカップに出場、世界を転戦するうちに「実の両親を捜したい」と考えるようになった。
 韓国のテレビ局がこのニュースを取り上げた。養母のデボラさんは「夢が叶った。彼が息子になってくれて本当によかった。素晴らしい息子よ」と語る。しかし、たくさんの人が、自分が親だと名乗りでてきた。その中の一人は、幼いとき迷子になって、ずっと捜してきたと。DNA鑑定にかける、その結果は少し先でないと出ない。
 本人も、両親も、日本のような「産みの親より、育ての親」という感覚はないようで、意識の違いを感じる。韓国聖職者協会の里親プログラムがきっかけということは、クリスチャンの考え方ということなのか。子どもは神様の子どもで、神様が喜んでくれるのならばということなのでしょうか。孤児院では障害のある子どもは、引き取り手がなくて大変なのではと考えるのは日本的な考えで、障害を持った子どもは、生まれながらに「神に祝福された子ども」なので、一番先に引き取られていくという。この考え方には脱帽せざるをえない思いです。
(2006.2.22)
 三浦半島から「食育」について考えようというフォーラムが、県立保健福祉大学で開かれました。行事が重なり出席が叶わなかったのですが、神奈川新聞でも大きく取り上げられていました。同大学の教授で日本栄養士会会長の中村丁次先生が「みんなで食育・みんなで健康」と題して基調講演を。現代社会で大きな問題となっている生活習慣病は、適切な食と運動を続けるしかないと予防法を、また食育の意味と食生活指針を紹介。医師の石田信彦先生は「百歳まで健康で生きるには」をテーマに、介護老人保健施設などでの取り組みを説明。「これから大切なのは病気や寝たきりにならないように。食はその中で最も基本と述べられた。その後、パネルディスカッションが行われ、子ども達に正しい食育をどのように伝えていくかを考えたと紹介されていました。
 NPO法人「食育健康福祉協会」が設立されて、理事長に「住よし」加藤社長、副理事長に「横須賀魚市場」府川社長、「エイヴィ」木村社長、「横須賀青果物」池野社長という食の専門家が揃い、尊敬するボランティアのエキスパート小田切さんが理事として名を連ねる。設立趣意書には、食育は・・主に児童生徒に栄養バランスのとれた食生活を、そのための必要な知識、能力を身につける。健康は・・安全で新鮮な食材を提供。福祉は・・高齢者向け献立の研究、提供をとしている。
 折しも、米国産牛肉問題を筆頭に、遺伝子組み換え食品、鶏インフルエンザ等、食に関する問題が大きな問題となっている現在、正しい食生活には、正しい知識、情報が必要であり、その正しい食材が提供できる体制を採っていることは、心強いかぎりと言える。敢えてNPO法人という非営利団体で、設立、運営に非常に煩雑な事務管理が必要な形態を採られたこと、理事長ご自身の糖尿病との厳しい戦いから得た思いに裏打ちされた食への挑戦に敬意を表し、微力ながら早速入会をさせていただきたいと思うところです。
 そして、わたしたち人間は、食べていくうえで多くの生命を頂いていることの感謝を、改めて思い起こすことが今必要なことと反省させられます。
 参考までに  個人正会員は 入会金3,000円 年会費2,000円
(2006.2.17)
 日本は昨年、予想より早く人口が減り始めた。現在の1億2千万人が、2050年には9千万人を切る可能性も在ると言われる。この人口減社会をにらみ、国土交通省が05年度から始めた検討文書には、増築の反対に建物や敷地を小さくする「減築」という言葉が使われている。5階建てマンションの4,5階を切り取り、3階建てにする。並んだ3棟のうちの真ん中を壊し、緑地にする。ポツンと残された家屋を移築し、一帯を森に返す。
 ドイツでは、すでに減築への取り組みが始まっている。2010年までに計7500戸の住宅を壊す。これまでは街を大きくすることが目標だった。今後は量でなく生活環境の質を高める。跡地には新たな施設は造らず、緑地にして自然の回復に努める。 例年にない寒波に襲われた青森市、解体する郊外の古い市営住宅から、市の提案で中心街の市営住宅に転居したYさん、40年近く住んだ庭付きの旧宅は、愛着もあったが、子どもが巣立ち夫も亡くし、朝の雪かきは辛くなっていた。その雪かきをしなくていいのは最高に楽と。
 街が縮めば、雪対策経費も公共投資も、減らせる利点がある。人口減に伴い、道路や学校など社会資本が過剰投資になる。壊していくマイナスの発想を打ち出した野村総研は、創造的破壊は必然。何をどこまで壊すのか、国民合意が求められる。縮小は街にゆとりを生む、豊かさにつながる知恵が問われるとしている。
 横須賀市も昨年10月の人口統計(昨年比)でも、国勢調査(前回5年前比)の結果でも、人口減の結果がでている。新しいマンションは建つが、人口増には結びつかない。高齢化も進む。少し悲観的に考えていたが、これからの発想はこの減築をどう取り入れていくで、ゆとりのある街づくりができるとなれば希望も湧いてくる。  
(2006.2.8)
 一月最後の日曜日に後援会の新春の集いを開催させていただいています。昨年は両親の喪中のため二年ぶりの開催となりました。蒲谷市長、小泉正也様、牧島県会議長、実践倫理宏正会鈴木様と豪華な顔ぶれのご来賓をお迎えして、ご挨拶を頂きました。
 小泉正也様からは私も総理と同じく「変人」であると、お褒めの言葉を頂きましたが、次の牧島県会議長は変人ではなく、「偏屈」であると訂正をされました。何と会場から拍手をした人がいて、ビデオでも撮っていれば犯人を突き止めることができたのに。更に、ちょっと目を離すと「手抜き」をする。偏屈が手を抜いたら、目も当てられないと、相変わらずの口の悪いところを発揮されてくれました。
 偏屈はそうでもないと思うのですが、確かに手抜きは得意で、設計士にならなくてよかったと思うところです。これはAB型と蠍座のなせる技で、よく言えば周囲の状況がよく見えていて合理的で無駄がないということに。もう一つ特徴的なことは、分裂気質と言うことで、浅く広く同時にいくつものことを考えることができる。但し集中力に欠けることに。
 このお二人は、悪いことに小、中、高校の一年先輩にあたり、特に高校から後の人格形成にこのお二人とその友人の4人の方から大きな影響を受けてきました。その結果のなせる「偏屈」ですから、少々の事では治らないものと、むしろこれからは更に磨きをかけて仕上げていかなければと決意を新たにするところです。年初ご多用のところご来席をいただきました多くの皆様に感謝を申し上げ、市制100周年を来年に控え、一層の精進を誓い御礼を申し上げます。
(2006.2.1)
 20日の小泉首相は首相として最後となる施政方針演説で、吉田松陰の言葉を引用して締めくくった。「志士はこうがくに在るを忘れず」志のある人は、その実現のためには溝や谷に落ちて屍をさらしてもかまわないと常に覚悟しているという意味だそうで、もとは孔子の言葉だそうです。吉田松陰は、この言葉をひきながら、志を遂げるには、いかなる困難もいとわない心構えを説いたと言われています。
 昨年、直木賞作家で山口県下関市在住の古川薫氏と会談、同市を選挙区に持つ安部官房長官を交えて、吉田松陰や、高杉晋作など長州藩の話題で盛り上がったときの会話が念頭にあったものと。山口県では、未だに「長州」という意識が高く、政治家では岸、佐藤、安部という大物政治家を輩出している。たまたま大学の同窓生が山口は防府の出身、非常に優秀な方だった。授業が終わってずっと一緒に徹夜で麻雀をやっていたのに、一人だけ翌日の授業の下調べがきちんとできている。わずかな時間を使って、じつに的確に。なにより、やるべき事はやるという気力がどこから涌いてくるのか不思議な思いで見ていましたが、これもお国柄と考えると少し納得できるものです。
 吉田松陰、なんとおおくのものを残していることか。実行の大切さを、自分の持っている知識を役立てて、今の問題をどう解決するかという生きた学問の重要性を説いた。また人間は必ずどこか他人より優れたところを持っているとも。一方松下村塾の柱には「万巻の書を読むにあらざよりは、いずくんぞ千秋の人たるをえん」と多くの本を読むことをも。獄につながれたとき、荒くれの罪人と一緒になると、罪人全てがこの若い松陰を先生と慕うようになってしまうという徳があった。29歳の若さで死を覚悟して書き留めた留魂録の冒頭には辞世として有名な

        「身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂」
(2006.1.25)
 「笑み交はし やがて涙の わきいづる 復興なりし 街を行きつつ」
皇后陛下の今年の歌会始の御歌は、昨年、阪神大震災10周年の行事出席のため訪れた神戸市で、人々が乗り越えてきた苦難に思いをはせた経験を読み込まれたものでした。いつもながら温情溢れるお心のこもった御歌に敬服するものです。何年か前に神戸を訪れたとき、もうすっかり大震災の傷跡がなくなり、素晴らしい防災センターをみて、その逞しさに感激していた単純な自分が恥ずかしくなります。
 産経抄はこの御歌を紹介した後、あの日高速道路は横倒しになり、多くのビルが倒壊した一方で基礎工事をしっかりしていた高層ビルは無傷で残り、昭和20年の大空襲にも焼け残った昭和初期建築のビルもほとんどが倒壊を免れた。建築の耐震強度が生死を分けた教訓が活かされ、最近のビルは地震に強くなったと思いこんでいたのは、幻想だった。偽装にかかわった人たちには地震による被害を人ごとにしか思えなかった。想像力、いや人間らしさの喪失は天災よりも恐ろしい。阪神大震災はわずか11年前の出来事なのだと警告している。
 時代の移り変わりが早すぎて、過去の貴重な教訓を活かすことができない。この10年にいろいろな事故や事件が起きても、直ぐにのど元を過ぎればで、記憶には残しても、しっかりと検証して活かす事をしてこなかった。反省を欠いていた。時代に流されることなく、物事の本質を見抜く力をつけなければと改めて痛感させられました。
 奇しくも今年の1.17は国会の証人喚問。ヒューザー小嶋社長のあの参考人質疑のときの元気は何処へやら、ほとんどが証言拒否で、証人喚問の限界を感じざるをえませんでした。せめて、神戸でもとめた「1.17ボランティアスピリット」のピンバッチを胸に、忘れてはならないことを誓い、犠牲になられた6,434人の御霊のご冥福を祈り上げるものです。
(2006.1.18)
 本年もよろしくお願い申し上げます。
 異常な寒さのなか、キティーホークの乗組員による横須賀市民の殺害事件という何ともやりきれない事件で明けた今年、この原子力空母問題で揺れているさなか、また蒲谷市長初めての賀詞交換会で安全安心を強調したばかりなのに、頭の痛くなるスタートとなりました。原子力空母の安全以前の問題で、改めて基地協定の見直しが必要かと思わざるを得ません。
 スポーツでは明るい話題が多く、高校ラグビーは伏見工業高校が神奈川代表の桐蔭学園を破って、4度目の全国制覇を成し遂げ、今は総監督の山口良治先生の涙をまた見ることができました。大学は早稲田がやはり神奈川の関東学院に完勝で連覇。横須賀高校出身の池上選手も大活躍でした。
 余り期待していなかった高校サッカー決勝は圧倒的な強さを誇り連覇を狙う強豪鹿児島実業に挑んだ滋賀県立野洲高校が初優勝を飾った。個人技を活かした自分たちのサッカーを貫いた野洲高校。前半数少ないチャンスを決めて先制したものの、後半同点に追いつかれ延長戦に。大健闘もここまでかと思われた後半、見事な連携プレーで決勝点をあげた。累積警告でエースが出られなかった鹿児島は連覇の難しさを味わった。泣き崩れる鹿児島実業イレブンに、日本サッカー生みの親クラマーさんの言葉が紹介されていた。「タイムアップの笛は次のスタートの笛である」
 横須賀市は来年100周年を迎える。今年はプレ100周年で本格的に準備に入る。記念の年に向けて、皆様のますますのご清祥をお祈り申し上げます。
(2006.1.10)


◆・◆・◆・◆・◆・   2005年のまんまる頁へ ・◆・◆・◆・◆・◆
 津波 TSUNAMI  歌会始  辰巳芳子さん(料理研究家) まごころのスープ  視覚障害者編物作品展 
 節 分  新幹線停車  父子二代の札幌  ラグビー日本選手権  温暖化時代  卒業式  愛知万博
 
(愛・地球博)  ネグレクト(育児放棄)  さくら  友好都市 会津若松  ローマ法王  尼崎事故  花粉 
 症  夜回り先生  山本耀司 ヨージ・ヤマモト  クール・ビズ(ノーネクタイ、ノー上着)  磯崎満男先生 
 横須賀市長選挙  女子バレー菅山かおる  図書館  盆踊り  二十四の瞳 郵政解散  蝉しぐれ
 駒沢大苫小牧2連覇  第44回総選挙 ウエスト・サイド物語 監督ロバート・ワイズ
 国境なき医師団
 個人情報保護  紅葉狩り ロッテ日本一 原子力空母  共に生きる 還 暦  熟年離婚 
横 綱
  
 成人式 手袋を買いに  一年の感謝を                                    ◆計43編◆







◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆