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 厚生労働省は今年度から5年で全国に100万人のサポーターを養成する計画をたてた。市は5年で2千人を目指す。痴呆症では言葉が悪いと2000年に「認知症」と変えた経緯がある。認知症と、老化現象による『もの忘れ』との違いがなかなか分かりくい。『もの忘れ』は人の名前を忘れて、あとで思い出す。というように体験の一部を忘れるが、自覚があり、判断力は低下していない。日常生活にそれほど支障をきたさない。一方『認知症』は病気であって、体験の全てを忘れ、自覚もない。犬とかりんごのようなよく知っているものの名前がでてこない。道が分からなくなる、急に怒りっぽくなったり、疑い深くなったり性格が変わるといった日常生活に支障をきたす。言葉のやりとりができない、お金の計算ができない、手順をふむ作業ができないは『認知症』の疑いありで、約束の日時を忘れる、鍵やメガネがよく行方不明に、置忘れやしまい忘れは『もの忘れ』だそうで一安心。
 診断が難しいので、とにかく早期の診断を。治る病気や一時的な症状の場合もある。薬の不適切な使用によって起きることも。高齢者は複数の内服薬が処方されるので注意を。簡単なテスト、時計を絵に描いて1から12まで数字を書き入れて、針を10時10分に描けるかどうか。数字が時計からはみ出したり、針が1本だったりしたら疑いを。病気の進行を遅らせるアリセプトという現在に日本で使用可能な薬もある。より早期に使用することが大切。数年以内に原因を除去できるワクチンが開発されるが、これとても発症してからでは効かないとされる。 予防法は野菜でビタミンC、E、βカロチンを、魚でDHA、EPAをとる食習慣を。週3日以上の有酸素運動、十分な睡眠、30分以下の昼寝、人との交流、文章を書く、読む、趣味を楽しむ。低下する機能に対する対策として、1日遅れ、2日遅れの日記をつける。買ったものを思い出しながら家計簿をつける。2つや3つのことを同時に行なう。てきぱき仕事をする。相手に注意を配りながら話をする。新しいことをするときに上手くいくように手順を考える。旅行の計画をたてる。新しい料理を考える。パソコンを使ってみるといったことだそうで、これなら、今からでも何とかなるかと、改めて心構えを。
(2007.11.30)
 昭和5年の秋に大阪で「吉兆」は、狭いお店からスタートし、始めのお客は湯豆腐で一杯の人だったそうです。この創始者の湯木貞一さんによって、「吉兆」は推しも押されぬ日本料理の最高峰の料亭に発展した。湯木さんは「商売はお金より、いい客に恵まれることの方が大事」と。
 そのいいお客の一人、昭和50年に『料理天国』というテレビ番組を作った辻調理師学校の辻静雄さんは仏料理が専門だったので、日本料理を知るために一時期狂ったように吉兆に通った。当時、一回でサラリーマンの一月分の給料がとんだといわれるお値段。受ける湯木さんも、調理場から特別に腕利きの料理人を何人か選び、辻さんにかかりきりで、常に最高の材料を使わせて他の客とは違う料理をつくった。辻さんは旬の材料の使い方が群を抜いてすばらしかったと語り、後に『JAPANESE COOKING』という英文の本をアメリカで出版し、代表的な日本料理を分かりやすく解説した。
 湯木さんが心を尽くして準備した部屋は、ほのかに香のかおりがただよい、床の間にはその夜にふさわしい掛け軸と花が飾られた。吉兆独特の胡麻豆腐、ハマグリの吸い物は、まるで火が通っていにないかのようにやわらかくなめらかだった。ハモのしんじょも口あたりがよくなめらかで、器は魯山人の織部が使われていた。料理が一品ずつ運ばれる理由は、一度に全部の料理を出したら、ひとつの料理を食べているあいだにあとの料理が冷えてしまうからで、天麩羅は朝から揚げ始める。それに、せっかく味のバランスを考えてつくっているのに味の濃い料理から箸をつけたら、料理が全部台なしになってしまう。これも心づくしの一つと知る。
 「船場吉兆」の偽装表示は、創始者のこれほどまでの心づくしを、全く理解していなかったとしか言いようのない驚きで、老舗の信用を一度に失くしかねない。伊勢の「赤福」、北海道の「白い恋人」と続いたこの不祥事は、企業としての社会的責任は当然のこととして、経営者一人一人の個人の生き方の問題も大きく、先代が苦労して築き上げた信用の重さに考えがいたらず、目先の利に走り、社会の恩を忘れた結果と暗い気持ちになんともいえない憤りを感じてしまう。
(2007.11.22)
「菊づくり 菊見るときは 陰の人」 社団法人全日本菊花連盟全国大会が横須賀市制100周年記念大会として横須賀アリーナで開催されました。北は北海道から南は九州(沖縄は温かすぎて菊ができないそうで)まで菊づくりの名人の力作3,000点が集められ、日本一を競いました。球技花として、今年は地元横須賀の一番の名人、高原 勇さんの手により誕生、市長が命名した『横須賀100年』という新種が誕生しています。神奈川新聞でも紹介されていますが、高原さんは、菊づくり50年、数多くの受賞暦を誇り、今も多くの後輩が目指す目標とされる「神様」で、「育てやすい花だが、今年は陽気が悪く上手に咲かせるのは難しいかもしれない」と心配されていました。しかし、さすがに名人揃い、競技花としては今までにない多くの出品がありました。
 数の多さから、鉢物は少なく切花が主体で、その並べられた色とりどりの美しさは壮観でした。10日の審査日に盛りに持っていくのが大変だそうで、電球や、黒いシートを使って日照時間を調整したり、丈が伸びすぎないように薬で抑えたりもするそうです。そして審査日の前日の夕方には、全国から自慢の作品がバスで運び込まれ、徹夜で花弁を一枚一枚整えていくというのですから大変です。運搬は花が最優先で、人はバスの通路に。「人の骨は折れても、繋がるが、菊は折れたら終わり、これまでの苦労も水の泡」と慎重の上にも慎重に。審査には作成者の名前は伏せられていますが、数多くの同じ花でも、自分の作品は分かるそうです。「子育てと同じですね」という問いに「子どもには、ここまで手をかけません」という答え。
 先ず50種類の最優秀が選ばれ壇上に上げられ、更にその中で、順位がつけられ。一番が栄えある「内閣総理大臣賞」となります。文字通りの日本一は、千葉県の方が受賞され、この方は他にも2点、この50の中に入っていて、繰り返し表彰を受けることになりました。地元横須賀からは、何度もこの50点に選ばれている久里浜の小川和夫さんが見事に入り、面目躍如となりました。「この花は自信があった」と喜びを語られていました。翌日の一般公開にも、多くの方が訪れて、美しさを堪能されていきました。陰の人として、一年前から準備にあたられた横須賀菊花連盟の皆さまと市の観光課のお二人に心から敬意を表します。
(2007.11.12)
 全日本大学駅伝、日本体育大学のアンカーは大学四天王の一人で主将北村聡選手。2位でゴールした後、迎える後輩を止めて、ゴールに一礼。他の選手が倒れこむか、そのまま仲間のところへ駆けていくのに、駅伝でこのような光景を見せてもらったのは初めてでした。
 プロ野球日本一は53年ぶりの中日ドラゴンズに。最高殊勲選手は中村紀洋選手(34歳)。インタビューでは涙が止まらなかった。イチローと同期で大阪府立渋谷高から投手で近鉄へ入団。2,000年のシドニー、2,004年のアテネの五輪メンバーとしても活躍、メジャー、ロスアンジェルス・ドジャース入りしたが、活躍の場がなくオリックスへ。ここでも怪我で不本意なシーズンを終え、契約で球団と対立。中日の入団テストを受け育成選手として年俸400万円で入団、背番号は205番。その後年俸600万円の支配下選手に、背番号も99に。しかし打率2.93、20本塁打、打点79で完全復活を遂げた。日本シリーズは18打数8安打4打点と存在価値を見せつけ、自身初の日本一に。過去に本塁打王1回、打点王2回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞5回、オールスターMVP1回という実績を考えれば、どうしてこのような選手をみすみす他の球団が手を差し伸べなかったのか、落合監督の選手に対する温かい気持ちが際立つと言えるのでは。
 もう一人、楽天の山崎武司選手(38歳)。愛工大名電(イチローは5年後輩)中日へ入団。この年に星野監督が就任。1996年松井を抑えて本塁打王(39本)打率、打点共に松井を上回ったが、巨人が優勝してMVPは松井に。2002年に交換トレードでオリックスへ。2004年戦力外を通告され、一時引退も考えたが、高校の先輩にあたる工藤(横浜ベイスターズ)の勧めで現役続行を決意、東北楽天イーグルスへ。初代4番打者として活躍。翌年、野村監督が就任、今年は43本で本塁打王、打点王に。好調の原因は、配球を読むようになったことと力を抜く打法にあると語っている。読みは、野村監督が試合中にベンチで若い投手と捕手に打者心理を語っているのを聞いて応用した。力を抜くことは、苦手の投手に開き直り「どうせ打てないのならダラダラ打ってやろう」と力を抜いたら2打席連続本塁打になったのがきっかけという。
 2人のベテランの復活は名伯楽との出会いもあるが、あきらめずに努力し続けた結果と頭が下がります。
(2007.11.5)
 明治大学校友会横須賀地域支部、横須賀会主催の恒例の明治大学マンドリン倶楽部のコンサートが、ゲストにロングセラー「千の風になって」の秋川雅史さんを迎えて行なわれました。一昨年の「涙そうそう」の夏川りみさん以上の人気で、開場5時間前に並ぶ列ができたそうです。永年のマンドリン倶楽部のファンも多く、今回で48回を迎えます。
 私が学生服を着て初めて参加したのが、今はない汐入の市民会館での第6回でした。次の7回は新装の文化会館で、今は芸術劇場ですから、隔世の感を感じざるを得ません。当時の横須賀信用金庫の服部総務部長(現理事長)に広告をお願いに行って、「俺は立教だからな」と断られそうになって、高校の野球部の後輩ですというと快くお付き合いをいただいたことが思い出されます。当時は平日の昼夜2回公演というのも信じられない思いです。 バスでマンドリン倶楽部を迎えに行ったことも。おどろいたのが、バスの中でタバコを口に持っていくと、後ろからさっとマッチの火が差し出される。完全に運動部の世界です。同学年で久里浜の中村さんが倶楽部のメンバーで、何時もギターをかついで登校し、昼休みには校庭で練習されていたのを、眩しい思いで見ていました。今でもギターを弾かれています。
 その年の倶楽部の共立講堂での定期演奏会に花束を届けにいったのですが、ゲストがデビューしたばかりでとても今のお姿が想像できない小林幸子さんでした。横須賀でもゲストを呼ぶようになってビリーバンバン、チェリッシュ、から始まって角川博が入ったり、昨年のペギー葉山さんまで多彩なゲストを呼べるようになり、こうして定着することができました。
 今では唯一の学生会の主催としても注目されていますが、ここまでこれたのは一重に牧島功先生のご尽力によるものと感謝を申し上げなければなりません。角刈りの18歳から白髪の63歳の今に至るまで変わらず、学生たちと接し、あるときは先頭に立って、また後押しをして、「好きだなー」では、とてもここまではできません。2年後の第50回記念のコンサートを楽しみに、何時までもコンサートが続いて行って、多くの市民の皆さまに楽しんでいただけますようにとお祈りしています。
(2007.10.29)
 横須賀美術館三つ目の企画展。残念ながら、澁澤龍彦については、まったく知識なし。作家・批評家でありフランス文学者(1928〜1987)の没後20年を記念する展覧会で、豊かな知識を活かしながら、独自の好みと美意識にもとづく自由な芸術論やエッセーを発表し、従来の美術史にとらわれない新しい美術の見方を体現し、日本の文化・美術に大きな影響を与え、今なお人々を魅了し続けています。澁澤龍彦が発見し賞賛した古今東西の幻想美術家80人の250点に及ぶ作品とともに、著作・資料・遺品・蒐集品50点を織り交ぜ展示し、澁澤龍彦という広大な海への旅にみなさまをいざないます。とパンフに書かれている。
 不思議な絵が多いなという第一印象。ジョゼッペ、ピアズレー、イブ・タンギー、ブリューゲル、ルネ・マグリット、ダリ、クレー、ピカソ、写真のヘルムート。ニュートン他に四谷シモン、酒井抱一、やっと名前だけは聞いたことがあるかというところ。そんな程度ではどうも歯が立たないと思いながら、流し見をしていく。これは先日疲れない美術展の見方としてテレビで紹介されていたのを早速実践。興味を引いた作品を改めてじっくり鑑賞するというのが一番のポイントなのですが、とうとう戻ることはありませんでした。
 そういえばサド侯爵の研究でも有名で、『悪徳の栄え』の翻訳本の発禁処分をめぐって裁判沙汰にという話を聞いたことがあるのを思い出されるコーナーもあって、作者の足跡として除くわけにはいかないのだろうが、どんなものかと思いながら、ガラスケースに入れられたある一点を見て、ここまでやるかという思いが。ここは公立の美術館。その建設にあたっては反対運動が盛り上がり、ようやく開館にこぎつけた。開館を記念する企画展が、かなり反発があって、次のウォーリス展で少し盛り返したかに思っていたのに、これでもかと、この展示。子どもがこれを見て「これは何」と聞かれてどう答えるというのか。女性の来館者も多い。ブレーキがきかない、配慮が足りない。
 横須賀の新しい名所として、来館者も予想よりも早く10万人を突破。とにかく一度見に行ってみようという方も多いと思う。そういう好意に応えられる運営をしていくには、何かが必要なのでは。 
(2007.10.19)
 世界の「イチロー」は誰でも知っているが、「サブロー」となると、パリーグ千葉ロッテの4番目の打者と答えられる人はまだまだ少ないのではと思います。2年前のロッテ日本一に貢献、4番打者ではなく、自ら4番目の打者と語る12球団で一番地味な4番打者が、今年のパリーグ。クライマックスシリーズでも活躍、M・V・Pに輝きました。
 お互いに後のない第3戦は、6回表までは投手戦で0行進。6回裏その均衡を破ってTUYOSHI(これがまた知らない方のほうが多い)2年前やはり大活躍した西岡選手がフォアボールで出塁。好投のスタンドリッジ投手の始めてのフォアボール。これには伏線があって、前の打席では1−3から打ってアウトになっていて失敗している。しかし今度も同じ1−3で、打ってくるかもしれないと思うと、簡単にストライクをとりにいけず結局歩かせてしまった。積極策が活きて、一番出してはいけない走者を出し、盗塁をされ、3塁も狙う動きに好投のスタンドリッジは、フォアボールを連発して満塁に。
 そこで4番のサブローが登場。2年前に、何と言う綺麗な立ち姿と絶賛したその力の抜けた自然体から走者一掃の3塁打をたたき出した。ここで投手交代。その初球に里崎がスクイズをきめて4点目をもぎ取ったバレンタイン監督の采配も見事なものでした。ヒット1本で4点は相手に与えるダメージも大きく、結局4−0でロッテが首位の日本ハムへの挑戦権を獲得、13日から札幌での決戦がまた楽しみになりました。
 王監督の胴上げをと、必死のソフトバンクに対して、サブローが監督に「楽しみましょう」と声をかけたロッテとの差は、2度のバンド失敗とダブルプレーに。また盗塁阻止率リーグ最下位は、誰でも走れるロッテに無言のプレッシャーを受け続けていてのではと、短期決戦の難しさを改めて見せられた思いです。そして最後に心温まる良い場面が、グランドを去るソフトバンク小久保選手が、きちんと帽子をとってグランドに、勝ったロッテに祝福を込めてとも思える一礼をして去っていきました。この見事な行為こそプロ野球選手の鑑ともいえるもので、心から拍手を送るものです。
(2007.10.12)
 NHKの「お墓、どこに眠りますか」 お墓が田舎にあって、遠いので近くへ引越したいと思っても、今、東京の青山墓地は一区画566万円で、そこに国産最高の石を使うと800万円はかかるそうで、これは極端な例としても、おいそれとお墓も立てられないということに。
 一方、子どももなく、お墓を守ってくれる人がいなくなる心配も多く、「永代供養墓」が登場。お寺が責任を持って供養してくれる。その他にもインターネットでお墓参りができたり、ビル型墓地もある。このビル型墓地は、案外合理的で、落ち着いてお参りできて、これからのお墓の姿かも知れないとも思えるものです。更に進んで、「手元供養」という言葉ができて、きれいなミニ骨壷を身近に置いて、何時でも自由にお参りできる。ペンダントにして、身に着けることも。 「散骨」が良いと思うのですが、自治体によって条例の定めるところによるそうで、考えていたほど、なかなか自由にはならない。先ず骨が灰になるまで細かく砕く。水源や漁場の近くには撒けない。自宅の庭にと思っても、周辺住民の同意が必要等いろいろな制約がある。「樹木葬」これは文字通り、土に還る。その上に、木を植えれば、何十年か後には里山ができる。これは、かなり評価も高い。 「寿量」(じゅりょう)生前に自分のお墓を建てること。そういう用意の良い人に限って、案外長生きしてしまうケースが多いそうです。「建墓」(けんぼ)お墓を建てること。コメンテイターの小朝師匠のひとこと「定年退職して、家に居ついてうっとおしい亭主は、早くあの世にいってもらって、さて、これからは自分の人生を楽しむことができる。せめてお墓ぐらいは建ててやろうかと。これを良妻建墓(りょうさいけんぼ)と言う」
 叶うことならば、自分の骨は、観音崎の海と、甲子園のグランドに撒いてもらいたいと思い続けてい
ますが、下水に流されたりしてと、いらぬ心配をしてしまいます。 
(2007.10.5)
 祖父母、父母、姑5人の在宅介護を経験。介護する側とされる側の心のあり方をユニークな発想と介護哲学でわかりやすく紹介する。「介護することは、自分の老いのリハーサル」その講演は年代を問わず大変な人気がある。お婆さん人形をつれて、時々、腹話術で返事をさせる。とにかく明るいが、経験は凄まじい。
 祖母の場合、今までにたくさん働いたから、もう動きたくないと散歩にと誘っても「シミができる」入浴を勧めても「人間は垢では死なない」と。体と心を分けて考える。おしめは老眼鏡と同じ。どんな人も、しもの世話になる。ならないと死んでいけない。一人の人を受け入れることは、その人の人生を受け入れること。考え方も、習慣も、「匂い」も受け入れる。ヘルパー講習で「匂い」が受け入れられずに、途中で放棄するケースも多い。介護は排泄物の処理に尽きる。優しさの第一歩は「うっとおしさ」「やだな」から入る。慣れる以外にない。ダメはダメで向き合う、我慢をしない。
 介護される側は弱者ではない、強者として向き合って大丈夫。あるとき暗く落ち込んでいるときに、「あんたは、まったくのろまで、気がきかないんだから」との言葉に何かがきれてしまった。「もう、いい加減に死んでよ」と言ってしまった。「あんたが死んでも、あたしゃ死なないよ」と顔色ひとつ変えずにけろりと言い返した。その日以来、言いたいことは言うことにしたら、憂鬱状態から抜け出せた。親の命令で、部屋を明け渡された孫もおさまらず、「お婆ちゃん、いつ死ぬの」と聞くと「来年の春」と平気で答える。春になって「まだ死なないの」と聞いても「あの世が混んでいて、まだお迎えに来られないんだって」と答えてにっこり笑う。したたかさに救われる。心の中に「悪魔の部屋」を持つことにした。しかし決して開けてはならない。部屋の中では「このくそ婆あ」と繰り返した。憎しみも愛のひとつ。何を思っても良い。先のことは考えず、「今日一日だけ」と。
 自分の死を考えることもできた。ようやく順番が回ってきたと考える。若いときは生の方から人生を見るが、年をとったら死の方から人生を見ることも大切。人は一人で死んでいく。自分という親友をつくっておく。死は一生懸命に生きた人へ与えられるご褒美、簡単には死ねない。生きて命を燃やさないと死ねない。ピンピン、コロリはレアーケス。介護は自分の老いの姿。
(2007.9.21)
 元大本営参謀、伊藤忠商事会長、山崎豊子さんの小説「不毛地帯」の主人公のモデルとしても知られた瀬島龍三氏が逝去された。行年95歳。富山に生まれ陸軍士官学校を2番で卒業。主席は宮様がその期におられて自動的になられるので、実質の主席。陸軍大学校は主席卒業。大本営参謀として日本軍の作戦計画の策定に携わった。関東軍参謀に転出、終戦でシベリアに11年間もの抑留生活を余儀なくされる。終戦時、帰国の機会はあったが、責任をとって敢えて留まりシベリアへ、途中で、東京裁判にソ連側の証人として出廷させられ、家族にも会えず、祖国の土を踏むことなく逆戻りに。想像を絶する過酷な抑留生活は、小説で読むことはできても、この平和慣れした私たちには、到底理解できるものではない。
 帰国後、伊藤忠商事に入社。並外れた才能を会社が放っておくはずもなく、会長にまで上り詰めるが、折りしも、防衛庁の空中戦に巻き込まれ、ロッキード事件の裁判中に、同時進行するかのように「不毛地帯」が書かれた。とても小説とは思えない迫力があった。
 「秀才中の秀才」と言われたその才を中曽根首相のブレーンとして日韓関係の修復、臨時行政調査会、行政改革推進審議会、3公社(国鉄、電電、専売)の民営化と「昭和の参謀」として腕をふるうことに。国鉄再建以来、衆議院、大蔵省 外務省改革にかかわった現千葉商科大学長の加藤寛先生は「経師は遭い易く、人師は遭い難し」(けいしはあいやすく、じんしはあいがたし)学問の師は遭いやすいが、人生の師にはなかなか遭えない。本当の人生の師であったと語られています。自身は、先ず結論を先に言う。人から相談されれば「一つにはこう、二つにはこんな案もある。三つにはこうするのもよいが、この場合は2番目が適当だろう」という柔軟な発想を常に持たれていたそうです。
 シベリア抑留は60万人がソ連に連行され、6万人が過酷な強制労働などで、異国の地に果てている。その多くの同胞の眠る大地の上を、生き残った自分が飛行機で飛ぶわけには行かないと、ソ連の上空を飛ぶ北回りの路線には決して乗ることはなかったといわれる。「昭和の生き証人」という貴重な財産が失われた。ご冥福をお祈り申し上げます。
(2007.9.14)
 明治大学文学部教授 諸富祥彦先生の講演を聴くことができました。「子どもの心を育てる」結論から言えば、「子どもはなるようにしかならない」子育てで無理をしない。不可能を可能にしようとしない。間違った子育てをしても、勝手に親を無視して、すくすく育つ子もいる。育て易い子と、そうでない子がいる。心の弱い子、体の弱い子、持って生まれた心の弱さ、体の弱さもあることを理解する。してはならない3つのこと。1.気分次第で褒めたりしかったりしない。子どもに見透かされている。親に対する信頼がなくなる。愛を実感できない。2.非現実的なことを言い過ぎない。「何度言っても分からないのね、バカじゃないの」などと言われると、心がくじけてしまう。肯定的な心の呪文を、良い方へ勘違いさせることも必要。3.兄弟と比較しない。子育ては平等が良いわけではない。愛された気がするように。心密かに自分が一番愛されていると思い込ませることが必要。兄弟と比べて自分は愛されなかったという恨みは一生残る。
 勉強ができるよりも、結婚できる就職できる心を育てる。今、職員室へ一人で来るのは女性、男は仲間がいないとだめ。女性の生徒会長が多くなっている。男は元気もない。好きな女の子に告白して、断られたら傷つく。ニートも晩婚も傷つきやすく、傷つきたくない心からきている。人と競争しない結果、管理職になりたくない、責任をとれない。親がちやほやし過ぎた結果で、試練を与えることも必要で、七転び八起きを教える。男の子に対して、母親は家の中で「女性」を捨てない。少しでいいから、いい女を残しておく。女はどうせこうなるのかと思わせない。女の子は小5から高2が問題。母親との関係、友達との関係に悩む。学校は戦場、いつ仲間はずれにされるか、やらなかったらやられることも。弱音をはける、救いを求められる家庭づくりを。いつも笑顔の家庭、上品な家庭が実は危ない。喜怒哀楽を出せる、我慢をしない、泣いたり笑ったりできる家庭。夫婦喧嘩も仲直りも子どもに見せること。
 親への宿題が4つ。1.弱音をはける、夫婦で弱音をはきあえる家庭を。2.スキンシップを。子どもの前で手をつなぐことはもちろん、抱き合うことも。今更そんなことと思う人は歯を食いしばってもやってみる。3.「ごめんね」「お願い」「ありがとう」の言える家庭を。命令をしないお願いしてありがとうを。4.濃度は空気以下に?。「隣のご主人を見習って」はだめ、男はプライドがある。場所を変えてコミュニケーションを図る。場所が変わらないと、人間関係も変わらない。昔デートをした高級ホテルで、正面で向き合わないで、隣同士の位置で、景色を見ながら楽しい思い出話を。奥様はお願い上手になること。
(2007.8.31)
 甲子園3回戦、宮崎代表の日南学園は春選抜優勝校の常葉菊川に対し5回表に3点をとって先行。左腕の有馬は7回まで散発の3安打に抑え、8回裏、常葉最後の反撃も2アウト。塁上は2,3塁。迎えるバッターは5番打者。いくら当たっていないとはいえ、この大事な場面で代打を起用。2回戦で代打で3塁打を打っているものの2年生で、春も夏の県大会にもベンチ入りもしていない、スタンドで応援していた伊藤慎悟君。一級目から思い切った空振りを見せる。7球粘って8球目をたたいた打球はレフトスタンドへ。価値ある同点スリーラン。これだけで終わらず、延長10回裏にサヨナラヒットを打ち、一人の控え選手がチームの窮状を救う見事な活躍を見せた。
 気が弱く、思い切ってバットが振れず、力を発揮できないでいた。レギュラー以外の居残り紅白戦で調子が良かったのが、監督の目にとまった。伸び盛りで、今使わないと伸びないと、ベンチ入りとなった。本人もこの夏はあきらめていた。それでも毎夜11時まで素振りを続けてきた。「秋は自分たちの代になりますから」それが甲子園でホームラン1本3塁打2本の11打数7安打と打ちまくった。問題の場面を見ていて、まず気持ちの良いフルスウィングをする。当たったらホームランもあるかと思わせ、オーバーに言えば、長島さんのデビューの三振を髣髴させるものがあった。どう成長していくか楽しみな選手が現れた。
 決勝戦、奇跡の逆転満塁ホームランで、深紅の大優勝旗を手にした佐賀県立佐賀北高校も、甲子園で大変身をとげた。甲子園で一勝をが、開幕試合に勝って2回戦は引き分け再試合、5回戦は延長戦サヨナラ勝ち。7試合に再試合と延長戦を併せると実に2試合多く戦って、最後まで甲子園に居続けることになった。疲れよりも慣れ親しんだ方が多かったのかと思えるほど、伸び伸びしていた。しかし、決勝戦だけは、7回までわずか1安打4点差であきらめもあったと思える。しかし百崎監督の試合前の談話「スタミナだけは負けない」が生きていた。甲子園で8回も流れた校歌「背振(せぶり)天山 並みよろひ 南有明 海の風 若き生命を吹くところ 甍(いらか)は高し北高校」・・凄い校歌。
(2007.8.23)
 「飛んでいるものは飛行機以外、4本足は机と椅子以外なら何でも食べてしまう」といわれる中国。そういえば、一度だけ訪れたことのある大きな国土の中国のほんの一部でも、野良犬、猫も雀も鳩もカラスも見かけなかったのは、まんざら偏見とも言えないのかと思われます。そして、飲み水の悪さは想像を超えていました。売っている飲料水も本物と偽者があって、見分けるのは難しいときている。生野菜は良い水で洗っているとは考えられないので、警戒するものの、氷では油断して失敗する。ホテルでも水道の水は飲むことはおろか、うがいも歯磨きもダメという世界。それが現地の人はその水で生活していて全くなんでもないのは凄いとしか言いようがない。
 しかし、世界の3大料理は、フランスとトルコと中国だそうで、フランス料理は当然として、トルコ料理は食べたこともないのでなんとも言えないが、中華料理の実力は認めざるを得ないのかも、それにしても日本料理が入っていないのは納得できない気持ちもする。話題を呼んだ「ダンボール肉まん」はやらせだったというが、そのほうが信用できないほどで、ぜったいあり得ることと確信してしまう。うなぎや海産物、歯磨き粉に玩具と中国産の信用は失墜。とうとう米国では中国産でないことを証明する「チャイナフリー」という表示が現れたそうです。
 心配なのは1年後のオリンピックで、先進国の選手が体調不良で、全く勝てなかったなどということに。水あたりの下痢の凄さは経験してみてわかるもので、薬が効かない、治りも遅い。オリンピックどころではなくなってしまう。日本などは、選手村に泊まらずに、飛行機で通ったほうが賢明なのではと思ってしまいます。泊まるなら水はもちろん食料すべてを持ち込みに。運動選手は消耗が激しく、免疫力がおちるだけに心配が残ります。「洋館に住み、中国料理を食べ、日本女性と結婚する」のが理想だそうですが?
(2007.8.10)
 逆風で苦戦という予想を超える歴史的大敗となった今回の参院選でした。年金問題、政治と金、失言、とどめは絆創膏と、振り子の原理も加わって負ける原因には事欠かず。安部総理には気の毒な状況でした。相手の小沢代表はしたたかで、田んぼのあぜ道でみかん箱に乗って一人区を徹底して攻めた。田中真紀子さんも敵にまわって強力なスピーカーに。岡山では姫のトラ退治と片山幹事長が、島根で亀井父娘に景山副幹事長が敗れて、さすがの青木議員会長もお手上げとなってしまった。
 特に感じたことはテレビに出ていない人が苦戦、象徴的な横峰パパなどは、政党はどこでもよかったなどと得意になっているのを見ると、どうも納得がいかない。比例区(全国区)はどう考えても、無理な制度で、17日間で、全国をくまなく遊説できるはずもなく、ポスター掲示板もなく、政策を丁寧にうったえることもできず、人気投票の感が強いもので、そもそも全国民の代表たりえるはずもない。投票所で、名簿を見て、150人を超える候補者の中から、瞬時にお目当ての人の名前を探し出すのも至難の技でした。参議院の在り方からもう一度しっかりと検討しなければならないのでは改めて思います。
 各党のテレビコマーシャルで一番面白かったのが国民新党。暴走族のような若者がたむろしているところへ現れた綿貫代表。表情ひとつ変えずに「若者よ、しっかりしろ」と叱りとばし、「おじさんといっしょに頑張ろう」と励ます。あっけにとられる若者たち。神主の資格を持つ綿貫さんでこそと、このアンバランスが、なんともいえないユーモアを感じさせられました。コマーシャルでいくら力んでも、票をとれるほど甘くはないのだから、これくらい余裕を持って楽しませてもらいたいものです。
 翌々日のテレビでとりあげていた「密着!妻たちの戦い」鳥取の川上義博候補、郵政反対で自民党を追われ、国民新党の推薦をうけ、民主党から立候補。見事に自民現職を破って当選。川上夫人の働きは見事なもので、影の力の強さ、有難さを十分に感じとることができました。 
(2007.8.3)
  雲仙・普賢岳噴火(平成2年)、北海道南西沖地震(平成5年)、阪神・淡路大震災(平成7年)、新潟県 中越地震(平成16年)に続き、今回の新潟県中越沖地震に対して市議会としても義援金を送らせていただきました。職員の専門職の応援第一陣も既に現地へ飛んでいます。新潟県では、忘れた頃どころか16年10月に続いての災害に、お見舞いの言葉もありません。
 今回もライフラインの確保が非常に難しいことが、被災された方々を苦しめています。電気、ガスは一般の市民には復旧の手立てもなく、水の確保も改めて大切なことと思い知らされます。先ず飲み水の確保、次に生活用水の確保です。給水車が来るまでは自分で何ができるか、ある程度の飲料水は常に常備しておかなくてはなりません。水道水を蓄えるよりも、市販の水の方が安心かもしれません。次善の策として、風呂に水をはっておくことも、仏様の水も毎日変えておくことは、水に対しての気持ちの表れでもあるのでしょう。
 先週に続き、曽野綾子さんですが、「悪は存在しているがゆえに学ばなければいけないのです。たとえば嵐からも洪水からも学ばなくてはいけないし、貧困からも病気からも学ばなくてはいけない。私たちは、すべてのことから学べる。悪からも善からも、実からも虚からも、おそらく学べる。狭い見方が敵なのだ思います。悪だからといって、その存在さえも拒否してしまうと、私たちはそこから何一つ永遠に学ぶことはできなくなる。悪も善と同じくらい、存在を意識すべきなんですね。」
 災害からも、学ばなくてはならない。被災された方には酷な言い方かも知れませんが、不幸にも身をもって得たその経験さえも、神のなされたこと。それは選ばれた人にということなのでしょうか。冷房のきいた所で、テレビを見ている私たちには、決してそこまでの学びはいただけない。被災された人のために直接できることは限られているが、先ずは思いを馳せること。自分にもなにかできることが、あるはずと考え行動することと思います。
(2007.8.3)
 尊敬して止まない曽野綾子さんの、教育改革国民会議での「教育の基本 − 日本人へ −」という報告の全文を読むことができました。すべてをご紹介するのは大変なので、お叱りを受けそうですが、ほんの一部分だけで、お許しをいただくこととして、 「私たちは自由を求めるが、しかし人間が完全な自由を得るということは至難の技である。私たちは平等を願うが、人間は生まれた瞬間から、平等ではない。運命においても才能においても生まれた土地においても、私たちは決して平等たり得ない。しかし私たちが自由と平等を、永遠の悲願として持ち続けることは、当然である。・・・教育という川の流れの、最初の水源の清冽な一滴となり得るのは、家庭教育である。学齢期の子どもの躾は父母の責任と楽しみであり、小学校入学までに、団体行動に従えること、挨拶ができること、単純な善意をわきまえること、我慢することなどの生活の基礎的訓練を終えて社会に出すのが任務である。子どもは、父と母を本当は尊敬したいのである。故に父が直面している生活の厳しさ、その成功例と不成功例は、共にたいていの子どもが深く愛する話となる。父の職場を家族に見せる気運を社会に望みたい。
 また家庭にあるときの母は、一つの重厚な存在感として子どもの心に残る。父も母も理想ではなく、人間の存在の証として認識されれば、それで家庭教育は成功したのである。両親は、子どもが最も理解しやすい、人生で最初の教師である。・・・人は変化して生きる素晴らしさを持つ。・・変化は、勇気と、時には不安や苦痛を克服して、実行しなければ得られない。私たちは決して未来に絶望していない。道は厳しい。しかし厳しくなかった道はどこにもなかった。だから私たちは共通の祖国を持つあなた達に希望し続ける。」

 「希望し続ける」なんという素晴らしい表現なのでしょう。
(2007.7.20)
 『同封の遺産金1万円を修行の糧としてお役立てください そして人として大事な心に悪しき事を思わず汚れなき心を持ち あらゆる善き行為に励んでいって下さいそうすれば積善の徳を通して世に貢献するばかりか あなたの過去とあなたの家系にまつわる罪障をも滅してゆくことになるのです お幸せになって下さい  合掌』
 
 話題の1万円札、各地の役所のトイレに和紙に包まれ、表書きは「報謝 一人一封」と書かれて置かれていた。全国18都道府県で総額は400万円を超えるとされている。残念ながら横須賀市には置かれていない。
 文面は同じだが、コピーではなく、1枚ずつ手書きされている。当然どんな人がということに。置いてあったところが男子トイレなので男性であることは間違いないと、推理作家佐野洋さんは「公務員だったことに誇りを持つ人。遺産を残す相手がなく、批判されている公務員に頑張れというメッセージのつもりで」と推測。宗教ジャーナリスト青山さんは 「修行の糧、合掌」という言葉はあるが、宗教の本質からは遠いと。むしろ筆圧が後へいくほど弱くなっていることから、高齢か大病をおしての行脚も考えられる。「幸せになって下さい」という言葉も、自分が不幸だからこのような結びを、また自分の死を見定め、多くの人に還元していくことが最良の報謝と思い込んだいるのではと。
 このお金は、拾得物として扱われ警察で6ヵ月保管され、拾った人は、置いた人が現れなければ全額を、現れた場合も5〜20%相当額を受け取る権利を得る。札幌市では、置いた人が現れなければ市の雑収入として一般財源に繰り入れるが、置いた人の意に沿うのか少し心配だというのも面白い。
 いずれにせよ、修行の糧を見ず知らずの人からいただいたのでは、その人の修行にはならないのではと余計な心配をしたくなるし、折角の400万円のお金は、もっと別の使い方がいくらでもあるのではと、皮肉な見方をしたくなる。お金の生きた使い方は難しいし、その人の生き方が、なにより問題なのだろうと、いらぬ心配をしています。
(2007.7.13)
 「若年性アルツハイマー病 」をテーマにした原作、荻原浩の映画化で、主演は『ラストサムライ』でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた渡辺謙、妻役に樋口可南子。監督は『トリック』の堤幸彦。「人を愛すること、そして一緒に生きていくことを、あなたに問いかけたい。生きることの辛さ、切なさ、そして素晴らしさをあなたに伝えたい。」とあるが、未だに治療法も薬もないというアルツハイマー、明日はわが身の怖い映画でした。
 49歳のやり手営業マンが、突然、物忘れが激しくなり、診察の結果、「若年性アルツハイマー病」と診断を下される。医師の簡単なテストというのが、「今は何年何月ですか」から始まって、目の前に置かれたハンカチ、コイン、腕時計、ボールペン、名刺の上に紙を置いただけで、その順番も答えられない。「どうして俺がこんな目に・・なんで、俺なんだ」という思い。せめて娘の結婚式までは、働く父親でと。その結婚式の父親のお礼の挨拶で、原稿を忘れ、必死の思いでのスピーチは見ごたえのある感動の場面でした。
 50歳で退職、療養生活に。働きに出る妻が書き貼り付けたメモによって掃除をし、食事をし、散歩をする。献身的に支える妻、しかし、症状は進行していく。「お前は平気なのか、俺が俺でなくなってしまっても」「私がずっとそばにいます」妻役の樋口さんは「この作品は自分が壊れていくような錯覚さえ覚える怖い作品です」と語っている。トラブルが重なり、これ以上迷惑はかけられないと、独りで電車に乗る。若き日の妻に先導されて、結婚前に二人で陶芸を習った思い出の場所へ、非現実の世界。
 焼きあがった湯飲みを手に昨日来た道を引き返す。前方に迎えに来た妻の姿。しかし、すでに妻をわからなくなっていて、「駅までいっしょに行きませんか」と。その現実を受け止め、後ろからついて行く妻。夫の握りしめている湯飲みには「えみこ」と妻の名が刻まれている。美しい景色の中を歩く二人。ここで映画は終わっている。「うーん」としか言いようのない、このラストシーンは、見た人それぞれの思いが残るのでしょう。
 「昨日の夕飯は、何を食べたか覚えていますか。」よく聞かれるアルツハイマーの初歩的な質問。何とか頭に浮かぶものの、人の名前が出でこない、体は若いときのようには動かない、確実に、一歩一歩そこへ向かっている現実。原作者の言葉の「明日の記憶」は、よく考えるとありえないわけで、「希望」と受け止めて欲しいということができればと思います。
(2007.7.6)
 今年も高校野球の開幕を控え、母校横須賀高校硬式野球部のOB会が開かれました。初めて見かける若い人が、挨拶に来て名刺を見てびっくり。神奈川県会議員 亀井貴嗣さんで、21期下の後輩になります。今期、公明党から初当選、党派を別にして、後輩が政治に挑戦してくれることは大歓迎です。
 夏の大会の主催は朝日新聞社。先日の人脈記、甲子園アルバムで大会歌「栄冠は君に輝く」誕生秘話をとりあげていました。1948年、歌詞を募集、5252作品から選ばれたのが、加賀道子さん当時23歳。しかし、実は本当につくったのは婚約者の大介さん。賞金目当てと思われるのが嫌で婚約者の名前で応募、賞金は5万円、公務員初任給の10倍以上だった。20年後節目の50回大会を前に真相を公表した。
 石川県の農家に生まれ、16歳のとき、右足の怪我でひざから下を切断。松葉杖で、自宅前の浜小学校に行き、子供たちの野球をみつめた。58歳で死去。その翌年、浜小の後輩になる松井英喜が生まれている。松井が甲子園で活躍した年、道子さんは松井の自宅を訪ね、「この歌大好きです」という松井からサインをもらった。

   1.雲はわき光あふれて 天高く純白の球今日ぞ飛ぶ 若人よいざ
     まなじりは歓呼にこたえ いさぎよし微笑む希望  ああ栄冠は君に輝く
   2.風を打ち大地を蹴りて 悔ゆるなき白球の力ぞ技ぞ 若人よいざ
     一球に一打に賭けて 青春の賛歌をつづれ ああ栄冠は君に輝く
   3.風を切る球の命に 通うもの美しく匂える健康 若人よいざ
     緑濃き棕櫚の葉かざす 感激をまぶたに描け ああ栄冠は君に輝く


 道子さんは、夏になるとカラオケで「栄冠」を歌う。やりたくても野球ができなかった夫の思いがこもっていると。作曲は古関裕而。早稲田の「紺碧の空」、「六甲おろし」、海上自衛隊隊歌「海をゆく」。誰もいない甲子園のマウンドに立ち、曲想を練った。 長女の新川淑恵さんは、03年、甲子園で開会式を見た。歌手森山良子が熱唱、「父は生きている」と涙が止まらなかった。今春から母校、浜小の教頭に。「夢に向かって生きろ、そういわれている気がします」。カラオケにあるとは知らなかった。でも最後まで歌えないだろうなと思うのです。
(2007.6.29)
 「もがり」とは、古代日本の葬祭儀式で、高貴な人の本葬をする前に、棺に死体を納めて仮に祭ること、またはその場所のことで、遺族はある時期を仮小屋(喪屋)に籠もった。それを「もがり」と言う。
 38歳の女性監督、河瀬直美さんの作品『もがりの森』が、世界3大映画祭のひとつ、第60回カンヌ国際映画祭で、グランプリを受賞。河瀬さんは、1997年の同映画祭で、『萌えの朱雀』という作品が、史上最年少の新人賞に輝き、その後、世界各地の映画祭で多数の賞を受賞している。
 生まれ故郷の奈良にこだわり、この映画も、奈良県東部の山間地で、旧家を改装したグループホームを舞台に、妻を亡くし心を閉ざしてしまった老人と、子どもを亡くし、つらい思いを抱えながらも、毎日を懸命に生きようとする介護福祉士の女性のものがたり。河瀬さんは序文で次のように語っている。

 「人は死んだら、どこへいくのだろう。それは、ものごころついたころから、不思議に思った記憶にはじまる。祖母に死ぬことが怖い、死んだらどうなるのと訴え続けますが、明確な答えはありませんでした。ただ、日々の暮らしを通して、そのことを伝えつづけてくれた。まちかどのお地蔵様にそっと手を合わせる。お仏壇に炊き立てのご飯をお供えする。そういったことで、亡くなった方との交流が生まれることにつながる。そしてそれは、目に見えないものの存在を確認することであり、目に見えているものだけが、すべてではないことの表れでもあった。 この映画を製作するにあたり、どうしたら遺されるもの、逝ってしまうもののあいだにある結び目の様なあわいを描けるか、私を含めて現代人は、マイナスの要素を排除し快適な空間のみを追い求めるあまり、大切なものを確かめられない日々を過ごしているような気がしてならない。前から続いてきたこと、今あること、この先に伝えていきたいこと・・・この映画が広く人々の心にとどまってくれることを願っています。」

 国際的に評価の高い北野武監督、『パッチギ』『のど自慢』と異才の井筒監督、『シコふんじゃった』『シャルウィーダンス』で豊かな才能を見せた周防監督。面白い人材に今度は、女性が加わり、これからの日本の映画界も楽しみになります。
(2007.6.21)
 9日(土)に母校馬堀中の創立60周年記念式典が行われました。折角の機会なので、当時を偲んで電車で馬堀海岸駅へ、考えることは皆同じと見えて、すでに何人かの知り合いの先輩の皆様と一緒になり、きれいになった駅舎から徒歩で学校へ。開校当時は、重砲兵学校の古い暗い木造校舎で、窓ガラスもなく、衣食も極度に不足し、米飯の弁当もすくなく、非常に貧しい時代だった。しかし、多くの素晴らしい先生が生徒の実力を引き出してくれたと大先輩が語る。小泉純一郎前内閣総理大臣、世界が実力を認めるピアニスト野島稔、シンガーソングライター渡辺真知子を輩出してる。
 式典の後、記念講演は横須賀美術館館長3期卒業の島田章三画伯。美術に興味を持っていて、恩師佐々木雅人先生(私も美術の授業を受けている)と出会い、褒められながら才能を引き出していただいた。やがて美術部をつくり、学外でのコンクールに応募して、何度も賞をとり、本格的に美術にのめりこむことになった。数年前NHKで番組をつくってくれた際に、はからずも校長室で、在学中に描いた作品、ウィスキー角瓶の油絵を見せていただいて、急に60年前の記憶がよみがえり、胸が熱くなったことを覚えていると語られた。
 祝賀会では、校歌斉唱に、作曲者で私の恩師の佐々木栄子先生が手ずからピアノを伴奏、ニューストリングス・オーケストラ(小泉前総理も在学中に在籍された当時としては珍しいバイオリン部のOBの皆様からなる)演奏にあわせて大合唱と盛り上がりました。

 「世界の文化広くとり 進む若人礼節の 操正しき学び舎に 素直な人と成りゆかん
  ああ秀麗の走り水 理想の旗はひるがえり かざすしるしも桜花 励む我等に栄えあれ」

何年たっても、すぐに歌えるのが校歌、この頃の記憶力は凄いものなので、この時期にいっぱい詰め込んでおくと、後になって活用できる。しかし、残念ながら、自分では気がつかない。途中での野球部の恩師堀越先生を囲んで、さながらOB会は、伝説の名選手が混じって、下から3番目に若い私などは恐れ多くて後ろの方に控えていました。そんな中、当時は徹底的にしごかれた鬼の先輩も、和やかな表情で、昔を懐かしんでいられ、本当は優しい人なのだと再発見をしました。今は、こういう姿を見ただけで逃げ出したくなる怖い先輩の存在がないことが悲劇でもあるのではと思わずにいられません。改めて怖かった先輩の存在が、今日の自分を作ってくれたものと心の中で感謝を申し上げます。
(2007.6.13)
 荒木汰久治さん32歳。1974年熊本県生まれライフセービングで世界に知られる経歴の持ち主。今回、「ホクレア号」(古代の伝統航海術を再現し、伝統文化と誇りを取り戻すために始まったハワイの航海プロジェクトで、世界への航海を続けている)にクルーとして乗船、1月にハワイを出港、タヒチを経て横浜を目指している。
 エンジンなし、コンパスも海図もなしで、2000年前の人間が、海を渡ったときの再現を。220の星の名前を覚え、朝日と夕日、北極星と南十字星を軸に、ひとつひとつの星の上る角度、沈む角度から1時間に15度の動きを計る。親指と人差し指の角度が15度で、時計は指のしわで大体の時間を。大体何時で、生活のリズムを。
 風のないときは、水面を見てひげがそれる。しけのときは、寒さに震え、船酔いは数知れず。しかしそこから、自分が必要なものが見えてくる。無駄なものがそぎ落とされる。逃げ場はない、逃げることは死につながる。そして島が見えたときの感動。日本人として日本の島を見つけた。自分が日本人だと確認が出来た。何度も何度も感動が繰り返す。身体の中に海がある。夢や希望が大きければ、大きい程感動も大きい。一人では出来ない航海、祖先から受け継いだ生命。一番の敵は「恐怖」。現実を正面から受け止めて、乗り越える勇気を。感じるには動くことから。自分から動く経験。その中から夢が生まれた。
 32歳の若さで、これだけの哲学を確立することが出来たのは、ひとえに生死をかけて、全身全霊を投入した厳しい体験からと尊敬の念を覚えるところです。今の私たちに、これだけの夢が持てて、実行する勇気が涌いてくるかと言われると、夢物語と片付けてしまうのではと心配になります。せめて子どもたちが、夢を持てるように環境を整えなければと責任を感じます。
今年の1月に、日本へ向けてハワイを出港した「ホクレア号」は、既に沖縄、熊本、長崎、福岡、山口、広島、愛媛(宇和島)を経て、いよいよ最終寄港地の横浜プカリ桟橋に、6月の10日に入港予定です。
 こういう人を知っているだけでも凄いのに、航海中にもかかわらず、横須賀へ呼んでしまう牧島功先生にも感謝を捧げるものです。
(2007.6.7)
 論議を呼んだ美術館が4月28日にオープン。それに先立つ27日のレセプションには、小泉前総理が来席された。選挙前に、この案内があったが、出席で返事を出す程、自分の選挙に自信がなかったので、欠席。改めて自分で900円の入場料を払って見学してきました。
 開館記念「生きる(Vital Signs)」展は、現代作家9人のリアリティというものですが、残念ながら、一般的でない、敢えてオープン記念に持ってきたことに疑問を感じてしまいます。何人かの人からも、いきなり女性の裸の写真で、子どもに見せられないという意見をいただきました。かろうじて、ヤノベケンジ氏の「トらやん」が、子どもにも喜ばれる面白さがあるだけで、どう考えても、普通の感覚の美術愛好家にも、受け入れにくいものなのではと、少し先が思いやられるという不満が残る企画と言わせていただきます。
 常設展示室を使った、もうひとつの開館記念特別展「近代日本美術を俯瞰する」は、きちんと年代別に、著名な作家の、他では見られない横須賀のコレクションが見ることができ、展示替が期待できる満足のいくものでした。別館の谷内六郎「週間新潮表紙絵展」1956(創刊)〜1957も、以前に見ていても、改めてそのノスタルジーに、心が癒されるものを感じる楽しめる展示です。それだけに、皮肉にとれば、敢えてこの格差は計算されたものかとかんぐりたくもなります。
 建物は想像していた通り、良く仕上がっていると思います。前面の食堂は、売りものの景色を楽しんでもらうためにか、屋外でも飲食ができるようになっています。その前を歩いて入り口に行かなければならないのは、お互いになんとなく、バツの悪さを感じてしまいます。ひと工夫必要なのでは。絵よりも素晴らしいと言わせる、この恵まれたロケーションは、四季を通じて、その美しさを堪能できるものと期待通りです。別掲でご紹介します、海からのコンセプトも売り物になることでしょう。
 2万冊の寄贈を受けた匠秀男先生の蔵書「匠文庫」はまだ整理がつかないとのこと。始めから全て満点というわけにはいきませんが、今後の展開に注目していかなければと思います。レセプションにお見えになっていたことと思われる、基本構想の委員長をお努めいただいた当時横浜美術館館長の陰里先生、国立近代美術館美術課長の本江先生といった専門家のご意見を、いずれ伺う機会を楽しみに。
(2007.6.1)
 熊本市の慈恵病院で「赤ちゃんポスト」がスタートし、いきなり赤ちゃんとは言えない3歳の男子が預けられて賛否が分かれている。ハマの教育委員、ヤンキー先生こと義家弘介さんは、自身の経験を語られている。0歳のとき両親の離婚によって、産みの母と生き別れた。男子がいつか大人になったとき、どのような感情を抱こうとも、確かに親がいたという事実を保障してあげるべきだ。3歳の男子は、父親から「かくれんぼをしよう」と言われ、話しかけられるとニコニコとうれしそうに答えた。彼は今、すべてを信じて、「かくれんぼ」をしながら、父親が見つけてくれるのを待っている。親の名前さえ知らぬものの気持ちが分かりますか。
 無責任な父親を特定するよりも、しっかりと保護して、育ててあげることが大切という意見もある。当初の目的の赤ちゃんでないだけに、問題も大きいが、基本は、とにかくひとつの生命を救うことだと思います。何の抵抗することのできない赤ちゃんが、親の誤った判断で、折角この世に生まれてきた奇跡を闇に葬られてしまうしまうことのないようにとする措置は、とにかく支持できるものです。キリスト教では、堕胎を認めていない。この日本で、多くの貴重な命を、(母親の胎内に宿ったときから、生命は誕生している)親の都合で殺してよいはずがない。命を生かすことが最優先される。産みの親より育ての親です。
 曽野綾子さんの本で読んだサリドマイド児のことが思い浮かびました。米国のある乳児院で、にこやかに笑う愛想の良いサリドマイドによる奇形児がいた。院長にこの子は引き取り手があるのですかと尋ねると、怪訝な顔をして「この子が争うようにして、真っ先にひきとられていきますよ」という答えが返ってきた。それはこの子が神に特別に祝福された子どもだからですという。宗教観の違いでは済まされない、もっと人としての基本的な考え方に、これだけの差があることに、敵わないと思ったという趣旨だったと思います。
 障害を持つ人にたいして考え方を変えること。可愛そうな人ではなく、特別なものを与えられた選ばれた人なのです。その人たちの少しでも役に立つことは、光栄なことなのです。
(2007.5.24)
 選挙が終わってもう3週間、やっと更新を再開できることができます。この度もまた多くの皆様の暖かいお心に支えていただいたことに、心から感謝を申し上げ、新たなスタートを切らせていただきます。それにしても、分からない選挙でした。
 結果だけを見れば、現職が全員当選ですが、連続トップ当選の吉田雄人さんの11,442票には、これまでの行動が、正しく評価され、今後の期待を込めての超大量得票と敬意を表します。6,901票で、2位の藤野英明さんも賞賛に値する見事な得票です。宣伝カーも持たず、マイクを片手に、一人で歩いている場面に遭遇して、熱いものが込み上げてきました。藤野さんのこの4年間の活動は、福祉関係の皆様の厚い信頼に支えられていました。3位の青木さんは、同じ会派で、その実力は目の当たりにし、4位の岩崎さんも、一人で駅に立ち続けた評価と、この若い4人の得票が、多くの新人候補の目論見を打ち砕くことになったと思われます。これらの若い人が、十分に議会で活躍できるような環境づくりを目指すことが、大切と責任を感じています。
 11日に臨時議会が開かれ、山口道夫議長が誕生しました。一番ふさわしい人が選ばれたと思っています。議員になるために生まれてきたような人で、確かな見識を持たれ、行動力にも優れ、人をそらさない細やかな気配りができる。これからの議会を正しくリードしてくれるものと大いに期待するところです。副議長の島田晃さんも、常に公平な立場から、鋭い指摘をされるひとで、安心して山口議長とともに素晴らしい働きをされるものと確信しています。
 春の叙勲で、沢田秀男前横須賀市長と、久野隆作前三浦市長が旭日中綬章を受賞されました。沢田前市長は、10年のお付き合いになりますが、いつも考え事をしているらしく、あるときには、ご自宅の前の会談で足を滑らせたとかで、お顔に擦り傷を。人付き合いが悪いと言う人も。しかし、退職後にお会いすると、にこやかに話しかけてこられ、これが本当の素顔なのだと、それだけ職務に没頭していたのかと、改めて尊敬の念を覚えるものでした。久野前市長は、弁舌さわやかに、やさしく語りかけるそのお姿に憧れていました。時代は確かに変化していることを感じざるを得ないという思いです。
(2007.5.16)
 
 横須賀市でも、この3月に定年退職を迎える人たちが多く、4年間は団塊の世代で、財政を圧迫するほど莫大な退職金が必要になります。しかし、この方たちの働きのお陰で今日の繁栄があるのですから、感謝でお祝いを申し上げなければと思います。定年を目前にして多くの人が振り返り「私の人生はいったいなんだったんだろう」と、本当の「自分さがし」が始まります。
 テレビでお馴染みの辛口経済学者 金子 勝先生のお言葉を。よく「農業をしたい」「一人でのんびりできる仕事がしたい」と考える。しかし、すでに自分と同じ世代が群れて塊になっているのですから、自分だけの価値だと思った瞬間、みんなも同じように感じ、考え、行動している。ここに気づかないと、同じような問いかけを繰り返し、その結果、同じような発想しか生まれてこない。
 もともと自分が抱いてきた夢や希望を、どこかで曲げてきてしまったのです。別の生き方があるとすれば、自分を曲げてしまった時点に立ち戻り、本来「積極的にやりたかったこと」を掘り下げて考えてみることです。そして、使命感。それも、何の見返りもなくとも、自分のしていることが、誰かの役に立ち、社会に貢献できていたりする社会的な使命感です。もうひとつ大事なことは「人生、努力すれば報われることもあれば、報われないこともある」ということで、好きでやっているのだから報われなくてもいいと思うだけで、生きていることが楽になります
 また、何事にも必ず壁はありますから、上る階段が一つ増えたけど、やりたいことに変わりはないしと思って再チャレンジしていけばいいと思うのです。そして、自分を曲げなかったことのほうに自己満足していく。そう思って生きれば、どんどん発想は出てくるものだとおもいます。もともと日本には、多様な価値観や多様な人生を尊重する文化があったのです。戦後、それらの価値観が崩れ、みんなが利益を求め、儲けや利益を優先してしまったのです。
 おかげさまで、私はこの団塊の世代のひとつ前、終戦の年の生まれで、極端にこの年生まれが少なく、受験を始め、いろいろな場面で、楽をすることができました。反面、この年は出来が悪いと言うことにもなり、どちらが良かったのかは、最後まで結論がでないのだと思っています。
(2007.3.19)
 月刊誌『MOKU』という地味ながら素晴らしい雑誌があり、楽しみに読ませていただいています。「独・慎・抄」で、「三つ子の魂百までも」の諺の通り、人はだいたい三歳以前の経験を思い出すことができない。これを幼児期健忘という。三島由紀夫は産湯をつかった記憶があるという。これは全く特殊な例。子どもは学習したという明瞭な記憶はないにせよ、三歳より前に言葉を覚え始める。その場その場の状況を覚えていることは確かです。この時期にも沢山のものを覚えるのだから、脳の使い方の記憶は形成され始めている。感情的な記憶はこれと独立して、記憶として残っていくのも事実。三つ子の魂は、子どもの将来を大きく左右するような重大なファクターである。
 子どもは、親の自意識や自覚の表現を仮装にしておぼろげな「自分」を意識している。だから、子どもは基本的に親の似姿のように成長していく。そして、思春期を境に自立へと志向し、親の自意識や自覚を土台にしながらも、あらゆる葛藤を経て独自の「自分」を形成していく。親の全人格、全言動、全行動、全表現を全身に受け止めて「自分」という無意識の我を形成し、それを礎にじぶんという固有の自意識、自覚を構築していく。人生は広くて深い。さらに複雑だ。道はどこにでも開けている。しかも自分の道を切り開けるのは、自分でしかない。

   道はじぶんでつくる  道はじぶんでひらく 
   人のつくったものは  自分の道にはならない (相田みつを)

 「孟母三遷」と「孟母断機」を例にあげているが、三遷は知っていたが、断機のほうは知らなかった。あるとき孟子が勉強を途中で止めて帰ってきた。はたを織っていた孟母は「勉強は進んでいますか」とたずねた。孟子は「それなりに」と答えた。すると、孟母は織物を刀でばっさりと断ち切った。「立派な人間は、しっかり勉強をして身を立てるもの。お前のようにそれなりの勉強をして、途中で帰ってくるようでは一人前の人間になれません」ときつく諭した。孟子は母の諭しを真剣に聞き入れ、それからは朝夕熱心に勉強に励んだという。孟母の子育てに対する真摯な姿勢と深い愛情、豊かな機知。無条件の母の愛ばかりでなく、決然とした母の愛の発露もある。この辺りが今の世に欠けているものなのでは。 
(2007.3.14)
 『国家の品格』は藤原正彦氏。日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」で、この誇るべき「国柄」を長く忘れてきた。論理と合理性頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。今、日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、国家の品格を取り戻すこと。藤原氏は故・新田次郎氏と藤原てい氏のご次男。
 『女性の品格ー装いから生き方まで』は坂東眞理子氏。内閣府男女共同参画局長、埼玉県副知事等を歴任、現在は昭和女子大副学長。上品な女性はー礼状が書ける。約束をきちんと守る。型どおりの挨拶ができる。長い人間関係を大切にする。流行に飛びつかない。姿勢を正しく保つ。贅肉をつけない。花の名前を知っている。思い出の品を大事にする。無料のものをもらわない。得意料理をもつ。人に擦り寄らない。愛されるより愛する女性になる。プライバシーを詮索しない。よいことは隠れてする。恋はすぐに打ち明けない。品格ある男性を育てる。
 今、評判の『ハケンの品格』は、次週が最終回。前小泉総理ご長男の小泉孝太郎さん、同僚議員上地克明議員のご長男上地雄輔さん、話題のテレビドラマに横須賀から旧知の間の2人が出演していることも興味深い。働く女性を応援する、戦うスーパー派遣、篠原涼子の物語。ここ数年、日本の雇用形態は大きく変化。正社員が減り、そのとき必要なスキルを持ったエキスパートたちを重用するケースが増え、その数は300万人に迫る「派遣」と呼ばれる人たち。いまや彼女たちなしでは企業は成り立たない。
 では男性の品格は、それよりも、品格が問われること自体が問題なのでは。
 幸いなことに、品格の模範は、天皇、皇后両陛下を頂点に皇室の方々に正しく受け継がれていると確信できます。先月、お忍びで観音崎の博物館へ両陛下がお見えになったそうで、天皇陛下は皇后陛下のお手を優しくとられて見学されたそうです。お忍びなので、信号も、全て青にされることなく、普通に信号待ちをして、時間をかけてご来館を。公私の区別をきちんとつけられ、写真撮影にもお気軽に応じられたそうです。正しい言葉使い、決して読み間違えをされないことも有名です。すべてが品格。
(2007.3.9)
 NHKクローズアップ現代でとりあげた、「語り継がれる『千の風』」。今、秋川雅史さんが歌って話題を呼んでいる「千の風になって」の原典は、1950年代にアメリカで生まれ、作者は不明とされている。2002年の同時多発テロの追悼式でも歌われ、イギリスではテロで命を失った若い兵士が遺書としてこの歌を書き残していた。日本には12年前に紹介され、作家の新井満さんが日本語に訳し、作曲した。新井さんは、この歌に触れ、「死生観が変わった。死を考えることは生きることを考えることで、生きるということは亡くなった人の分まで生きること。人は死後、遠くの世界へ行ってしまうのではなく、すぐそばにいて、いつも見守っていてくれると思えるようになった」と語る。
 神戸の六甲カトリック教会では、毎月の集まりでこの歌が歌われ、大震災、福知山線脱線事故犠牲者を慰めてきた。後に残された人のためにも、亡くなった人が必ずそばにいてくれると。娘さんを亡くした70歳の女性も、悲しみの中から「娘がいつも見守っていてくれる」と思えるようになった。宮崎では、9歳、5歳、4歳の3人の娘と暮らす主婦。夫を交通事故で亡くし、子どもたちの明るさが消えたとき、毎日、家族でこの歌を歌い、少しずつ元気を取り戻していった。

   私のお墓の前で 泣かないでください 
   そこに私はいません 眠ってなんかいません
   千の風に 千の風になって あの大きな空を吹き渡っています

   私のお墓の前で 泣かないでください 
   そこに私はいません 死んでなんかいません
   秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる
   朝には鳥になって あなたを目覚めさせる 夜には星になって あなたを見守る
 
   千の風に 千の風になって あの大きな空を吹き渡っています

                               ( 秋川雅史 「千の風になって」/ TECI-103 より)



 秋には芸術劇場で、明治大学マンドリンクラブの演奏会にゲストとして、秋川雅史さんの素晴らしいテノールが聞けるように交渉中だそうで、楽しみにしています。
(2007.3.2)
 18日、来日中のフォーク歌手、あのP・P・M(ピーター、ポール、アンドマリー)のメンバーの一人ポール・ストーキーさんが、都内でライブを開き、横田滋さん早紀江を招待して、自ら作詞作曲した、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんに捧げる歌「SONG FOR MEGUMI」(21日発売)を日本で初めて披露された。昨年、めぐみさんを取り上げたドキュメンタリー映画「アブダクション」(拉致)を見て、めぐみさんと同年代の女の子を持つ親として、少しでも横田さんご夫妻を慰めることができ、問題解決の力になればと行動に移られたそうです。収益は「めぐみ基金」に。

 P・P・M「風に吹かれて」「花はどこへいったの」「パフ・ザ・マジックドラゴン」「小さな雀」「天使のハンマー」「悲惨な戦争」「ディスランド イズ ユアランド」この位は今でも歌えそうな。60年代に大活躍をした、伝説のフォークミュージシャン。

 めぐみ何か話して そしてもうすぐ私のそばにいるって言って欲しいわ
  あなたのいない明日がずうーと続くなんて思うと 悲しみの涙があふれます
  あなたはまだ若い乙女なのに全ての夢を砕かれたのよね
  そして別れの挨拶どころか何の言葉もなくいなくなったの
  めぐみを私に返してください
  荒ぶる大海の向こうより 力の限り魂を叫びなさい
  私の心なら必ずそれが聞こえるから そしたらあなたは家に帰るのよ
  めぐみ、こっちに来て、あなたはどこに
  風の中にあなたの声が聞こえます 
 めぐみを私に返してください
  荒ぶる大海の向こうより 力の限り魂を叫びなさい
  私の心なら必ずそれが聞こえるから そしたらあなたは家に帰るのよ
  私に返してください 私のめぐみを 

                  ( 「SONG FOR MEGUMI/NOEL PAUL STOOKEY 」 DDCZ-1410 より)


 当時13歳だっためぐみさんは、北朝鮮の工作船の狭い船室に閉じ込められ、「お母さん、助けて」と叫びながら、指先が血だらけになるまでに壁を掻き毟ったと伝えられている。
 横田さんご夫妻は、涙を浮かべて歌声に聞き入り、演奏後、ステージに上がって花束を手渡され、「神様がくださった素晴らしい歌」と感謝を述べた。
(2007.2.23)
 正式な市制記念日は2月15日。子どもの頃はこの日が休日で大歓迎でした。次の世代は、横須賀だけの休日なので、子ども会がこぞってディズニーランドへ。100周年の記念式典は18日に、芸術劇場で行われますが、私は、結婚式に出席のため欠席となります。小学校5年生のときに、市制50周年の歌を「市制50年、記念のこの日・・・」と歌った記憶があります。
 その少し後に、法定伝染病「しょう紅熱」にかかり隔離入院。退院して登校したときは、皆が寄りつかず、聞けば学校はすべて消毒で大騒ぎだったそうで、子供心にうっかり近寄れないという思いだったのでしょう。今の「いじめ」と同じで、誰も口も聞いてくれない。その中で、元気な女の子が一人「可愛そうでしょう」と言って、きっかけを作ってくれて、救われたことが忘れられません。その女の子も、今は築地の有名料亭の女将。
 他都市へ出かけていくと、5年前は「横須賀から」と言えば、「小泉総理の」と。「同じ町内です」と言おうものなら驚かれて、密かに得意になることができました。女性には、山口百恵さんの「急な坂道 駆け上ったら 今も海が見えるでしょうか」の横須賀ですというのが、一番人気です。
 そして、米海軍基地があり、空母キティーホークの母港。海上自衛隊は最新鋭のイージス艦2隻を持つ自衛艦隊司令部と総監部、二術校、教育隊。陸は武山と久里浜に駐屯地が二つ、少年工科学校と通信学校、空は第二高射隊がペトリを装備。防衛大学があり、日本海海戦の三笠記念艦と紹介すると、完全に、横須賀市民は「海軍カレー」しか食べていないかのイメージに。
 「喜びも悲しみも幾年月」の観音崎灯台。そのふもとに市制100周年を記念して4月28日「横須賀美術館」がオープンします。東京湾を行き来する船を間近に見える景勝の地に、斬新な設計は函館未来大学で脚光を浴びた山本理顕氏。館長に地元大津出身、芸術院会員、文化功労者の島田章三先生をお迎えして、横須賀の新名所として期待されます。西にテーマパーク「ソレイユの丘」、ペリー来航の地久里浜に、ポピーとコスモスとハーブの「くりはま花の国」、東京湾に浮かぶ、自然を活かした「猿島」、「訪れてみたいまち」を目指して、新たなスタートを。
(2007.2.16)
 節分は節目、節が分かれる、切り替えのとき。自分の持っているものを捨てて、新たな自分をと決意する。季節の変わり目には、邪気が生じると言われ、それを追い払うために豆をまく。鬼は三匹いる。青鬼は、欲にとりつかれ、血も涙もない青白い顔をした薄情な鬼。むさぼりの心で、限りない執着で、決して満足しない。もっともっと症候群。赤鬼は、いつも不平不満でいっぱい。顔を真っ赤にして怒っている。黒鬼は、人を恨んだり妬んだり、疑心暗鬼で心も顔も真っ黒で、すべて人のせいにする。
 今年、平成十九年は丁亥(ひのとい)二黒土星中宮。この影響は、立春から徐々に現れてくるそうで、丁は字の形の通り、今あるものに、新しいものがぶつかる、つき上る、勢いのある年、ぶつかりやすい。亥と言う字も(かく)を表し、なにかを生もうとするエネルギーがたまっていて、いつ爆発してもおかしくない状態。衝突しやすい。問題を抱えている。地震の心配も考えられ、いつ起きても困らない十分な対策が必要。新型ウイルスが蔓延すると、家から出られなくなるとも言われ、食料、飲料水といった生活必需品等の備えを、この機に見直す必要も。
 二黒は、ものを育て、土星は土で、母なる大地。無心で子どもを育てる母心が大切に。「母親のゆりかごを動かす手は、世界を動かす」ことができると言われる。報いを求めることなく、無条件で尽くす。一度怒ると、一年をとる。一度笑うと、一年、若くなるそうで、無理に若くならなくても良いが、もうこれ以上年はとりたくないので怒ることだけは止めなければ。
 原子力空母臨時議会は、5日が市長の提案説明に続き5人の質疑が行われて延会。1日告示期間をおいて、7日に4人の方の意見陳述があって、午後から委員会が開かれました。傍聴を12人増員、報道各社が入り、裁判所の方式に習い、5分間の撮影時間をとって開会、議員傍聴も多く、緊張の中で行われ、賛成少数で議案は否決されました。そして翌8日は本会議、反対討論3名、賛成討論8名があって、議長を除く41名で記名投票が行われ、賛成10名、反対31名で、否決されました。原子力空母の横須賀配備の賛否を住民投票でという37,858名の方の趣旨は尊重しますが、反対票を投じました。
 しかし、これで終わりではなく、通常艦がないという現実をふまえ、模索を続けていく覚悟です。
(2007.2.9)
 代議士(衆議院議員)で「真紀子さん」と言えば、先ず田中真紀子さんを思い浮かべますが、もう一人の素晴らしい『真紀子さん』にお会いすることができました。先の郵政選挙で、比例区東海ブロックから当選された、料理の研究家としての名声も高い 藤野 真紀子さん。
 東京生まれ、白百合学園から聖心女子大を卒業の名門コース。卒業の翌年に、運輸省勤務の 藤野公孝 現参議院議員、国土交通省政務官とご結婚。転勤先のニューヨークで料理研究家としてデビューされ、その後の転勤先のパリで、ホテル・リッツの料理学校で学ばれ、帰国後お菓子と料理の教室を主宰され、今日の名声を不動のものとされる。
 国のすべての子供たちを我が子と想い、すべてのご高齢の方々を我が親と想い、すべての人を我が家族と活躍され、ライワークの「食育」を通して、次世代の子供たちに、持てるすべてを伝えていくそのご姿勢に感銘をうけるものです。
 このたびは、私どもの後援会の「新春のつどい」に、ご主人の藤野公孝氏の7月の参議院選挙を目指してのご挨拶に、お見えいただいたのですが、これまでの会にない花を添えていただくどころか、ご多用の中、懇親の席にもお残りいただき、ご来場の皆様をすっかり魅了され、逆に大きなお力をいただくことができ、心から感謝を申し上げています。
 折角の魅力溢れるゲストにもかかわらず、例年より、人の出が少なく、自分の選挙には注意信号が点りました。残された期間、初心に帰り、改めて新しいスタートを切らなければと気づかせていただくことができました。来週は注目の住民投票条例のための臨時会があります。 約4万人の市民の方の意思も尊重しますが、声を立てないサイレント・マジョリティも大切に、判断をくださなければと、身の引き締まる思いです。
(2007.2.2)
 2月8日に、上智大学名誉教授 アルフォンス・デーケン先生が来横され、ご講演が聞けることになったが、当日は住民投票議会の最終日で、時間が読めない。せっかくの機会なので、何とかと期待をしている。先生のお名前を知ったのは1984年。『生と死を考える』曽野綾子、A・デーケン編という本を読んでからです。1992年2月20日に文化会館で行われた「曽野綾子後援会」に、この本を持参してサインをいただくことができました。間近に、憧れの曽野綾子さんを見て、美しさに胸がときめいたことは、良い思い出となっています。
 曽野さんは序文に、こう書かれていました。「デーケン教授が”生と死を考えるセミナー”を計画された時、こういう企画こそ長い間私の待っていたものだと思った。私は何でも、隠して置かずに明るみに出すのが好きだ。隠しておくということは、いかなる意味でも解決にならない。人間の悲しみも醜さも別離も、共に何か必要な面があったからこそ、存在したのである。幸福も人間をふくよかにする。同時に死も人をみごとなものにする。病気は辛くもちろん避けたいものだが、苦しみを体験することによって、精神の成長を遂げた人がどれだけ多いかをみる時、死もまた同じだろう、いや、もっと効果的だろうと期待せざるを得ない。」
 この本で、国立精神衛生研究所長の土居健郎先生はサン・テグジュベリの『星の王子さま』をとりあげ、キツネは星の王子さまとの別れに思い出が残ることを「いちばん大事なものは、心でしか見えない。肉眼では見えないのだ」と教え、王子さまが自分の星においてきぼりにしたバラに対する責任を思い出させます。「何かに時間をかけた、ということで、そのものに対して責任が生まれ、愛情も生まれる」といって聞かせます。悲しいのは、愛するからなのです。そして何かが残るのです。思い出はむなしくない。目に見えるものよりもっと大事なのだと。愛して、失った方が、愛さなかったよりもいいとキツネに言わせています。と書かれていました。以前、NHKでもとりあげていたサン・テグジュベリの『星の王子さま』。改めて今、じっくりと読んで、生と死を考えてみよう思っています。
(2007.1.26)
〜その4〜
 原子力空母母港化反対の住民投票を求める直接請求、署名37、858(有権者数355,663)を受けて、臨時議会が開かれる。市長は地方自治体に決定権のない外交、国防問題の賛否を問うことは、住民投票にはなじまないとの姿勢を変えるとは思えない。それを受けて議会がどういう判断を下すのか注目を浴びることになった。
 議会は昨年、全会一致で「通常艦配備を求める」決議をし、意見書提出を行った。しかし、その後の推移は、「キィティーホク」以外には通常艦は「ジョン・Fケ・ネディ」しかなく、この艦も傷みが激しく、間もなく退役の予定で、残りは全て原子力空母となる。そのうちの「ジョージ・ワシントン」を横須賀に配備したいとの意向が明らかになり、選択肢がなくなってしまった。わが国の安全保障上、原子力空母を受けざるを得ないなら、安全性の追求に全力を注ぐ努力をということになり、市長は容認を表明した。議会では「自民党」会派(私は自民党員ですが会派は「新政会」に所属)だけが容認をした。
「新政会」は未だに容認はしていない。現在モニタリングを行っている「日本分析センター」を視察して、モニタリングポストの増設他の提案をし、実現の道を開いた。これから全員で、住民投票に対しての対応を協議していく。
 私の現段階での考えは、原子力空母は誰しも歓迎できない。決議の姿勢は変わることはない。しかし仮に住民投票を行って、その結果は受け入れ反対が多数を占め、市民の意思は反対ですとなったとしても、そこから先の現実は、横須賀がだめなら他に基地をとはいかない。喜んで受け入れてくれる都市があるとは思えないし、あったとしても莫大な税金が投入され、危険負担を含めて多大な犠牲を他に押し付けることになるのではと心配します。それが最良の選択とは思えない。反対の意思は、改めて確認するまでもない。その先の現実的な対応策が見つからない以上、配備反対という非現実的な意思表示だけでは、税金を使ってまで住民投票を実施する必要性は認められない。安全に絶対はないかもしれないが、少しでも近づける努力を。「安全」のために、反対の意思のうえに、地位協定の見直しを優先とした国とのハードな協議を求めて、現実的な対応を模索していく。これは「容認」ではないと思っています。

(これまでの"まんまるたいむ"より)

〜その1(2005.10.7up)〜

 10月28日、日米両政府は在日米海軍横須賀基地を事実上の母港とする空母キティホークの後継艦に、初の原子力空母を2008年に配備することで合意した。寝耳に水の、この決定は横須賀市議会も到底納得できるものではなく、臨時議会を開催して全会一致で反対の意見書を採択即日、正副議長が外務省へ抗議に出向いていった。
 議会としても昨年2月に通常型空母の継続配備を求める意見書を、今年6月に決議を採択し、前市長も再三にわたり外務省他へ申し入れをして、米政府も検討する旨の答えを受けていた。
それが頭越しに、一気に原子力空母では、地元の意向は全く無視されたことになる。現、蒲谷市長も、強力に通常型の配備を求めてシーファー米国大使に要請した。
 本市はこれまで米海軍と良好な関係を保ってきた。歴代の基地司令官はその先頭に立って親善に力をいれてきてくれた。市民レベルでの交流も盛んであり、基地の存在も、通常型空母の受け入れも認めてきた。更に原子力潜水艦の寄港も、原子力空母カールビンソンの寄港をも受け入れた。今、万が一の事故に備えて、事故を想定した訓練も行っている。しかしこの訓練に米海軍は電話連絡でしか参加しない。原子力艦船はこれまで重大な事故を起こしたことはないので安全だという理由からだ。
 しかし、人間に完全、絶対はあり得ない。この9月に着任したケリー在日米海軍司令官は「地元の意向は上層部で検討されたが、通常型空母は老朽化しており、新しいニミッツ級原子力空母は安全性が高い。能力を比較して今回の判断に至った。地元の事情は理解しており、安全性について説明する場を設けたい」と語っている。安全性の確保はもちろんだが、ここに至る手続きに問題が残る。簡単に納得はできない。


〜その2〜(2006.5.19up)〜

 15日に行われた「意見を聞く会」、議会は協議会の構成に疑問があり、情報公開の先進市で傍聴もできない秘密会に反発して、委員にあたる全員が出席を見合わせた。議会から正、副議長、各会派団長までは納得できても、各常任委員長をということが納得できない。どういう立場で発言すればよいのか、常任委員会は編成を終わったばかり、まして委員長の職は、対外的に委員会を代表する立場とは言い難く、どこからこういう選考基準がでてきたのか、議会の代表である議長に相談をしたのか、その他の構成にしても連合町内会長さんも、その立場での意見を聞こうというのか、首を傾げた点が多すぎる。
 時期的にも、受け入れに傾きつつある訪米団が帰るのを待っていたかのようにとられても仕方がない。そして原子力空母を母港化するには、港内の浚渫といった受け入れ体制を整える必要があり、その作業には2年はかかると言われていて、タイムリミットもあるということなのか。横須賀市長の港湾管理者の許可という責任ある権限を慎重に考えることも必要なのでは。安全性に絶対はあり得ない。防災協定も必要。軍の機密事項で難しい点も多いが、できる限りの積極的な情報の公開を。地位協定の見直しも必要。基地従業員の削減の心配。多くの課題があり、市民の全面合意は難しいにしても、納得できる結論を下す努力が足りないのではと考える。
 この1回目の会合への批判に対して第2回目は、公募、公開方式で120名から意見を聞くことに。傍聴も30人認め6月8日に開くことになったのは少しは前進かもしれないが、どうも「容認」という結論を急ぎすぎているように思えてならない。この問題に関して、国は防衛庁長官も、外務大臣も横須賀へ出向いて説明にあたるといった姿勢も見られない。沖縄が済んでからというなら、これから時間をかけて話し合いを重ねていけばよい。市民の意見を無視して、物理的条件が先行してよいわけはない。今、「条件闘争を始める」時期ではないと思う。
 そして、何より『議会の決議』はそれなりの重みがある。状況が変わったからといって、それを自ら否定することは、そう簡単には出来ない。


〜その3(2006.6.22up)〜

 6月12日に急遽、麻生外務大臣が蒲谷横須賀市長を訪問。17項目の解答書と、わずか20分の会談で通常艦配備の可能性は100%ないに等しい、15日に日米合同委員会が開かれるので、原子力空母受け入れのための12号バース浚渫に、協力を依頼した。蒲谷市長はこれを受けて議会に報告するための「全員協議会」を開きたいと議長に要請し、定例会が9日に終わったばかりで日程調整が難しく、あわただしく14日午後に開催となった。
 この「全員協議会」は正規の会議ではなく、今回限り前例としないことで、議会もことがことだけに了承した。市長は冒頭の報告の中で「通常艦配備の可能性がない現実をふまえ、安全対策に十分な期間をとるためにも、止むを得ず、2年後に迫る原子力空母の受け入れに向けて浚渫工事に同意したい」と事実上の「容認」の態度を表明した。会議には報道各社が勢揃いし、夕方からのニュースが流れ、翌日の新聞紙上を賑わすことになった。
 ある程度、予想はされたものの、この態度表明に各会派からの質問も、早くから容認をうちだした自民党会派を除いては、温度差はあるものの疑問をぶつけることになった。解答書が出て実質2日間しかなく、市長の意見を正式に聞いて30分の休憩を挟んでの質問で、しかも市長が答え得る質問という制約もあり、安全性の確保、防災協定、避難訓練への米側の参加協力といった「止むを得ず」に沿った質問から、公約違反ではないかとの厳しい批判もあったが比較的冷静に受け止めるしかないというところだと感じられました。
 確かに最終的には国の問題で、市にはこれを拒否し続けることは出来ないのが現実かも知れないが、何の抵抗もなくお手上げという訳にはいかない。改めて安全に向けて、新しいスタートに着くもので、会派として要請したモニタリング体制の充実に向けての回答は、積極的に進めるというもので、評価できるとして、今後の議会に課せられた責任も非常に重いものと受け止めるものです。


(2007.1.19)
 新年早々、悲報に接することになりました。渡辺猛男様 歌手渡辺真知子さんの父親で、三春町6丁目町内会長と三春町1,2,6丁目連合町内会長を務められ、私の選挙事務長(公式の責任者)を初めからずっとお努めいただきました。  昨年3月27日に最愛の奥様を亡くされ、沈みがちのご様子も、ようやくお元気になられたと安心していた矢先、突然のことで残念でなりません。一人暮らしを心配されて、毎日ご長男が様子を見にこられていて、9日の夕刻、気が付かれたときは、テレビをつけたままの大往生だったそうで、苦しまれなかったことがせめてもの救いです。
 お嬢さんの真知子さんを、小さい頃はテープレコーダーの代わりに使っていた。テレビの家族対抗歌合戦で優勝して海外旅行に。町内の宴席は先ず皮切りに、今はこの歌を練習しているからとご披露され、途中で他の方が、ご自分の持ち歌を歌われるとでていって一緒に歌い、トリは勿論ご自分の歌で締める。当然のことですが、歌は上手い、この年(84歳)でこれだけ声がでるかと思わせる。真知子さんの出演する番組は全てチェックされるが、ときどき録画には失敗する。時間の許す限り、コンサートにも足を運ぶ。とにかく真知子さんが可愛くてしかたがない。
神奈川県職員のOB会「かもめ会」の幹事もされていた。県では、消防学校の校長をされたこともあって、消防には力を入れられ、市の消防団連合後援会長、地元の第3分団の後援会長を務める。新築の消防出張所の名称には「三春」ではだめで「堀の内」がと主張され、副市長が説得を重ねて、納得はしていないが仕方がないと譲られた。県土木の経験も深く、地元の急傾斜や道路管理は自ら行政と交渉にあたる。ガリ版で鍛えた見事な字で、要望書から報告書まで手書きされるのを、全く苦にするどころか、楽しんでおられた。
 5日に町内会の新年会で、7日に神社の新年祭でお会いして、まさか、こんなことになるとは思いもよらず。真知子さんの愛犬のチワワをつれて散歩され、私の事務所に立ち寄られ、着るものも大変おしゃれで、そんなお姿がもう見られないと思うと・・・。多くのご厚情をいただいたご恩に感謝を申し上げ、心からご冥福を祈りあげます。
(2007.1.12)


◆・◆・◆・◆・◆・   2004年のまんまる頁へ ・◆・◆・◆・◆・◆
 新しい一年に 1.17  吉田松陰  新春の集い  減 築   食 育  実の親捜し  トゥーランドット 挑戦
 10回目の栄冠  野球選手になりたかった  三度目の春  四月一日さん  泰 山  散ってこそ 会津弁
 
横田さん訪米  原子力空母〜その2〜  監 査   金子みすず  盗 作  原子力空母〜その3〜 長崎は
 今日も雨だった  宮沢賢治  斉藤 正 先生に捧ぐ  枢機卿  淀どの日記  若 桜  熱闘甲子園 
 出産の危機  男たちの大和  泥沼の蓮の花  子供こそ大人の顔  横須賀高校ラグビー部50周年
 脳内物質  浦賀港引揚記念の碑  辰巳芳子さん(料理研究家)U「いのちのスープ」  110人の笑顔
 北の国から・・・日ハム日本一  パッチワーク・キルトの世界  国を守る覚悟 クリーンよこすか

 チャングムの誓い ALWAYS三丁目の夕日 ゲームセンター誘致? ノロウィルスとピロリ菌      ◆計45編◆







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